from left to right

id:kmiura:20040926で、kmiuraさんが、水村美苗『私小説 from left to right』を読まれて日本と米国でゆれた10代をお書きになられている。id:sujakuさんに拠ると「主人公の美苗は、心を閉ざしながら、一心に、樋口一葉から太宰治までの“日本近代文学”を読みふけってゆく」という。ワタクシの身内にも2つの国のアイデンティティに揺れて同じ行動をとった者がいた。ワタクシ元々本を読む習慣がなく、この小説も未読であるけれど、近々に時間をとってじっくり読みたい。(ホントは読んでからカキコするのがいいんだけど、ちょっと小説にハマってるゆとりがないので)
副題の"from left to right"は、グサリとくるコピー。kmiuraさんが、解説されてる「横書き」「地理的位置」の他に、「西洋=正統/日本異端」という意味合いも含んでいるんだろうな〜と、想像する。図象学を出すまでもなくアグリッパや最後の審判のキリストやダビデとかが軒並み"left"をキッとにらみつけてるのは、それ自身が"right"=正義に他ならない。"left"は邪悪の場所なのである。そして普遍(小説)に対する「私」のスタンス。しかしその「私」は、「日本近代文学」に埋没・同調しうる「私」ではなく、その日本的共同体から見ても"left"な立ち位置になってしまう。作家がその表記として「横書き」体裁を選択したことに強い意志を感じる。
「どちらにいても"from left to right"。常にここではない」と自己の体験を通してkmiuraさんはお書きになる。
私小説」=近代というカタチを通過した〈個〉であり、〈私〉の束=〈私〉的共同体=習慣的地域文化からハミだす(ハミださざるをえない)自己が、「震えるような不安」をもたらすのだろうな。そしてそれは、多文化(価値観)をトランスする(せざるをえない立場にある)個人ばかりでなく、飛び込まれる側=ひとつの価値観を共有する共同体も、そこが〈私〉の束であるならある程に「不安」は同様なのであろう。