反動の反動

kmiuraさんは、激しい校内暴力体験をお書きになられてる。80年代って学歴神話=大学にいきさえすればなんとかなるっていう価値観が世間的に通用した最後の時代なんぢゃないだろうか。70年前後の学生運動のアツイ闘争=祭りが終わった後の反動シラケ、先生も生徒も互いに距離を置いていたクールダウンな70年代。その反動で金八先生などの80年代「熱血・人情」ブーム。勿論70年代からそうした「青春熱血/スポ根ドラマ」はあったが、それがドラマ=フィクションとして成立つのは、現実がシラケ=クールであるから人はフィクションに感情投入して盛り上がるのである。いわばあくまでも「熱血・人情」はネタだったのだ。なんでネタかというと、それは「熱血・人情」「社会革命思想」な学生闘争がマジ=ベタになった実態(赤軍事件や文化大革命ドロップアウトの末路等)を目の当たり体感したからだ。
ところが、80年代になると「おいしい生活ポストモダンの多価値が大衆化し運動思想的マジが完全に葬り去られようとし、残りの「熱血・人情」がベタになる。バラバラになっているシラケの反動ってことで、「熱血・人情」がポモ的多価値を繋いぐってカタチになったのでは。当時さかんに言われた「感性」って言葉の今日的ハズカシさの正体は、その運用が単に「熱血・人情」のリニューアルであったにすぎないからではないだろうか。
80年代が70年代の反動で60年代的価値観「熱血・人情」をゆりもどしたとて60年代と違うのは、現実生活は多価値=消費生活にどっぷりとつかっているということだ。そうすると、「熱血・人情」そして「(運動)思想」は、上部→下部構造という一方方向を保てず「消費」するに値するかしないかという価値観にさらされる。学問・学校とて「サービス業」的付加価値で差異化(ポストモダン)される。学力=上位高進学実績を誇れる学校でないところは、「熱血・人情」という「感性教育」を押しだすと。
学校としては、中身はともかく「管理教育」で、ポモ的多価値でハミだす/ださざるをえない〈個〉をなんとか支配しようとした。そのことで教育というヒエラルキーアイデンティティを保とうとしていたのではないのかな。そのホンネ(学歴ヒエラルキー)と建前(戦後民主社会)と実社会(多価値消費生活)とのギャップが激しいところこそ、生徒はその欺瞞をかぎとり「校内暴力」というカタチになったんだと、ワタクシは実感している。