政治的殺人

見付かった遺体は、星条旗にくるまれてたという*1イラク入りする前にレバノンテルアビブに滞在してたというのも、アルカイダ系連中にとってはかなり刺激になったとする向きもある。ネットに流れた拘束ビデオで彼は小さく弱々しい声で「すいません」といった。記者会見した母親は「平和を信じて行動したと思います」という風な政治的フォローを余儀なくされていた。そういうことに言及しなければならない処に当人&家族を追い込むのは、ダイハードなイラク情勢ではなく、日本国内=我々世間である。本人の意図はどうであれ、ともかく過剰に政治的意味を付与された故に、彼の生命は阻害されてしまった。
id:hizzz:20041030で平和活動家になぜ辛口のカキコを延々したのかというと、こうした彼と自衛隊撤退運動をむすびつけようとする動きがあったからだ。それは、彼の生命の為にはならない。こういう結果を迎えて、撤退しない現政権のせい-皆殺しにした-という論調にいくのは容易いし、もっとも直情に訴える効果的手段でもある。しかしそれは、なによりも撤退論という政治的意図に彼の死を利用してるからだ。それは、今回殺害したアルカイダ系テロとまったく同じ、〈個〉を無視した踏みにじり方である*2
これに対しては、民族だか人種だか国家だか共同体だか宗教だか思想だか知らないが、固有の活きざまを勝手に一緒くたにするんぢゃあナイよボケ!って、怒っていいだろう>「ニート」差別される皆様。
殺害されてしまって、こんなことを言うのもむなしいことであるが、彼をこれ以上政治的意図で使われること(政治支配)を阻止するのが、彼個人として生きた固有の人生の尊厳を尊重することになるのかと想う。そしてどんな高潔で正統正義な思想信条であろうとも、そういう固有の人生を踏みにじる結果となる全ての言動に対して、ワタクシはシツコクひたすらケチをつけまくる。だって、そんな世界は活きくるしくって、あまりにもツマンナイぢゃあないか。


※追補
ここ一連の話題にふれるについては、ワタクシの中に泡立つものを感じて、それだから尚更、直情で扇情的なニュース&ネット等とは距離を置こうと意識的に考えた。そうしてその自分の中でつき動かされるコトを見極めようとした。
しかし、表面意識下ではそうしようと方針を立てても、なおも「やるかたない」泡立ちはワタクシをつついてくる。このことを言語で表現しようとすると、だんだん口ぎたなくなる。平たくいえばムカムカする怒り。…しかし、それはどーやら特定の誰かという対象を限定したものではないようだ。だったら、なんだろう。。。
そゆもやもやは、「死を望むわれら」(最悪の悲劇=惨殺という予定調和どおりの進行)ということが最大の原因かと以下の記述を読んで気付かされた。

他人の生死を自らの主張の論拠として用いる時(これは私自身もよくやってしまうことだ)、他人の運命が自らの主張のパフォーマティブな意図に沿うことを、私もまた“期待”してしまう。他者を自分自身の予測可能性の中に組み込んでしまうことを、私はいかにして回避できるのだろうか。あるいは、回避不能なのであれば、せめてその陥穽を不可避的に意識に上らせる方法はあるのだろうか。

「死を望むわれら」 山伏クレムリン
http://pavlusha.exblog.jp/

香田さん殺害の一部始終がネットにも流されたが、あの行為を「残虐」だと認定するのと同等の他者に対する政治的殺人行為を、自らの手を汚すことなく生身をさらすこともなく、無意識に参画していることは沢山ある*3
特にイラク(戦争)関連では、拠って立つ政治思想の左右上下前後関係なく、こうした予定惨劇に基づいた「それみたことか」的論調が支配して、その視点からしか問題アプローチがはかれない「(自説)運命論信仰者」の跋扈というおかしさがある。

*1:どうやらこれも誤報だったらしー。一次情報にアクセスできなくて、憶測&妄想のいりまじった「伝言ゲ〜ム」で錯綜しているのは、政府のみならずマスコミ&パンピーも同類項ってことだ。

*2:自分の信じる「正しさ」に、物言わぬ他者を都合よく巻き込み、自己正統化に利用するという教条的方法論は、拠って立つ思想の左右上下前後関係なく常に潜む。

*3:相対主義で相殺=現状容認ってことを言いたいのでないから、そこんトコよろしく。