私を探しに

情報社会の基本条件として、価値観/選択肢が多ければ多い程、自分にフィットしたものがドコかに既に存在してるはずって思って、それを探すことにせいを出すってことは、別段、特異な判断行動ではない。ただ、その行為が自分に満足するライフスタイルにありつけるかどーかというのは、別問題である。したから、そのような行動が求める満足感にフィットしない場合、目的と手段を逆転して「探している私」行動にもっとも自己価値をおくというアイデンティティのあり方(主題のズラし方)もまた、よくあるハナシではある。ともかくも、そうしてひとは自己を肯定して活きていく。それこそが、個人のアイデンティティのかたち=ライフスタイルにほかならない。だから、前にもカキコしたけど、探さなくとも自己はいつでも実現中=メーテルリンク『青い鳥』なのである。なら、そゆひとが探してるものは、何だ?「私のあり方」=方法論ではなく、そうした自己の有り様に対する他者への「理屈づけ」と自己への「納得」なのかも、しれない。