ガス抜き

価値観の違う中に自己を置いて、気がつかなかった自身を発見するというやり方は、別段とっぴな発想ではなく、むしろとてもオーソドックスである。でー、その「価値観の違い」なんだけど、金と暇のあるひとならともかく、無理して遠方の危険地帯にわざわざ出かけるまでもなく、そこここにある。建前で「均一化平等社会」などといわれているこの地、日本では、その幻想の「普通」からハミだすひとは、逆に目につきやすい。そしてそれが〈村〉社会の自己の有り様(正統モラルに忠実な善き自己=理想像)=立ち位置保持としての異質バッシング、そうした自己投影とそのガス抜きの格好のターゲットとなる。