均一社会の異質

それでは均一社会の異質とは一体ナニか?それは「自己」。なによりもそうした「正統モラルに忠実な善き自己」からハミだす自己である。マジもし自分がまったき「善き自己」の中にいると完璧に信じて疑わないのなら、それは逆に自己がない=からっぽな自分ということになる。何故なら、その自己申告する「正統モラルに忠実」ゆえに自己の個別性を喪失しているからにほかならない。そゆひとは、自分の言葉をもたないしもつ必要がナイ。「正統モラルに忠実」な公式見解をひたすらコピペすりゃーいいからだ。
さんざんカキコしてる、共感/好感と表裏一体の反感/嫌悪感は、実はそうしたとこからハミだした自己の自己投影そのものに他ならない。だから「生理的」嫌悪感なのである。世の中あきもせずいろいろなバッシング(いじめ)が起こるけど、ワタクシの見聞きしたケースは、そのいい分はおしなべて、バッシング側の自己投影という色彩がとても濃い。そのターゲットが存在しているかぎり、バッシャーは自己の問題=善き自己の偽善を突き付けられているように感じるから、過剰反応をしてまでも排除しようと、時には滑稽な程必死の努力をするのである。明白に他者を阻害しておきながら面白いことに、確信犯でなくむしろ自分は「被害者」だと、ホントに「傷ついている」バッシャーが多いことだ。自作自演かな?
そうした傾向にある人には、他者(自己理想制度外の第三者)はいないも同然。
ここに至って必要なのは「自己に理解できない価値観が存在する」という世界に於ける自己価値限界の認識=異質であるのに、それなのに「他者に配慮を」という自己世界を無理矢理広げるような言説の跋扈は、この問題解決にとって無意味である。だが、それを把握してないひとがあまりにも多い。むしろそんな善意の第三者が口当たりのよい「配慮を!」を言い立て、(その「配慮」発言は得てして、バッシャーや善意の第三者への「配慮」をバッシングターゲット=被害者に要求する加重抑圧=セカンドバッシングに容易になる)問題をコジらすケースが多い。>島田紳介の事件など