信じる者は救われる?

バッシャー行為は、そのひと固有のキャリアや能力や階層には関係ない。「AならばB」といった理想自己像が強い者/強い社会であればあるこそ、容易にこの手段のとりこになる。と、いうことは、理想自己そのものが、現実社会では異質であるということを示しているのだが、最初に善き自己以外の他者を排除したのと一緒に、「理想的自己像」以外の自己のあり方の方法論も排除してるから、このようなひとの活路は「理想的自己像」にしかない。ところが、困ったことに、自分自身100%「理想的自己像」に一致する訳ではない。無意識の内にもそれは感じているだろう。その自己に対する不満が、バッシングターゲッターにより自己増幅され、自分の立ち位置への脅威となる。その他者のせいで負の感情のコントロール不能になる自己をもってして「自己は被害者」と理屈づける。他者を追いつめるのは、バッシャーの追いつめられる自己投影にほかならない。DQN(制度外の第三者)にとって、それが戦争であろーがののしりあいであろーがバッシング合戦は格別の見物となる。
バッシング過程でいかなる高潔で高邁な理屈をつけようとも、排除もしくは隷属(侮蔑)支配する他者を一番必要としているのは、なによりも「理想的自己像」を信仰する者なのである。そしてそのものがなによりもイヤがるのは、そうした「AならばB」=予定調和以外を現実に実行してみせるものなのである。だから、ワタクシは、自己プロセスに使用した論理の上下左右前後関係なく、そういう「理想的自己像」信仰者を運命論者という。そうしてそこにとどまっている限り、いくらどんなに危険地帯までいって探したところで、新しい道(オルタ)はない。ないから、プロ野球参入騒動のように人格的脅威を与える発案者そのものは排除して、ネタだけは移植する体裁を整える老獪戦略もとられたりはする。
今回の米国大統領選挙前にプレゼンスしてみせるビンラディンやブッシュ支持の熱狂から、日本国内で個人叩きに必死こいてるセコマンに至る迄、ひとってコリないよな〜っと。
ま、そんなルーズなことをやりくりして、それで済んぢゃう人生(自己)ってのは、お喜楽な単純なのかもな。高度情報商品化のお便利社会が生み出しためんどくさがりは多いからね。