文化伝承

id:ykuriharaさんが、そうした20代若者とのハナシの通じなさレポートをされている。美術専攻だからというトンガリ「期待」はモロくもちゃぶ台をひっくり返されている。あははは。そいえば前に「美大の女の子100人に聞きました「あなたの感性を磨く!この一冊」」という内容見て爆笑したことがあった。(残念ながら記事は消滅)「アーティストになりたい」「クリアイティブな仕事がしたい」つーのがイケてること=自己実現本流になって、雨後の筍のようにそこここに発生して以降、なんかそゆ身の立て方は、クリエイティブとして目新しくもラジカルでも創造的でもないむしろ保守的にみえるし、そんな自己の在り方をついぞ疑いもしない「感性」とやらは、アートとしても限りなくダメだとおもうんだけどな。暇つぶしのお遊びにめくじらたててもしょうがないか。
イマドキ文学部を卒業したからとて文学者になれるとおもって大学に入るウブでメデタイ奴はそうはおらんとはおもうが、驚く無かれ専門学校を含めてその専門カリキュラムさえ消化すれば、即その道の専門家になれると思ってる奴がカナリいるのである。「だってそう広報/宣伝してるぢゃん」と真顔で言われた日には、確かに悶絶絶句する。で、まじめだけがとりえ故に難がある者によってささえられてるカリキュラムが多いという教育現場の現状が成立する(苦笑)。まだ、学校を否定してストリートなどにさっさと飛び出した連中の方が幾分マシということかも、新米。>カルスタの後始末
前回カキコしたように、クリエイティブ志向の場でも、継承ではなく島宇宙で消費される文化という現象がおこってるんぢゃあなかろうか。そしてそれを異者間継承しようとすると、限りなく「権威化」=「○○伝説」するしか劣化コピペ塵埃の渦からのがれる手立てがナイ、とか???
「十代にオザキを聴かせる」も傑作レポートなんだけど、大学いくような子とそれ以外ではまったくアクションは違うだろうな。そもそもこの世代は、「学校」という場に対する期待値と表裏の反動じたいそもそも持ち合わせてない。それがオザキであろーが、学生運動であろーが「ヤならヤメればいいぢゃん、うざい」で終了であろう。ちなみに、40代と50代ではオザキに対する評価は、40代のほうがサメている。上記にさんざんカキコしたけど、ベタなこというとオザキの親はオザキなのだ*1
ともかく、それはそれで、いーんぢゃないか。自覚すれば。年上の方が正しいという定見がなされ「若いものはものを知らないバカ」で終了してしまいがちだが、たしかに若いってバカと同義語であるが、その「若い」にメタクソ価値付与しまくってあがめた時代のツケのひとつであろう。バカにしてみれば訳解らんコトぐちゃぐちゃ言われても、知らんモンは知らんのである。ナニが悪い。それを無理やり知れ=意義を共有しろといったところで、ココの今の状況でその当人にとって意義あるコトでないかぎり、それは無理難題に近い。逆に、自分たちが自明であると認識してたコトが、ある特定の前提条件が満たされた上での自明でしかないという現実でもあるということだ。散々カキコしてきたけど、絶対に認めたくはナイであろうが、「反動」というカタチでの親子世代間文化共有ということが多分にある。
そしたら、それに絶望したり怒ったりするよりも、まったく違う視点から繋がり方を編み出すことが先決なんだろうな。たぶん広い意味での「アート」または「クリエイティブ」は、こうした解りあえない関係=他者/異者の落差の中からやっと始まるんではないかな。

*1:「いいたいことは親の悪口」というアイデンティティ>hizzz/20031027#p4