問題のエンターテイメント化

斎藤環のひきこもり論にワタクシが感じた違和感は、多分この社会演繹的なものと臨床帰納的なものを統一しようとして、文学的になってしまうとこかとおもう。それはひとつの読み物としては(不謹慎な言い方だが)とても面白い。それゆえ、読み物=エンターテイメントとして消費される運命に突入する。それは、問題をかかる側にとって社会化による自己承認と共に、社会に拠るエンターテイメント消費対象者になることを意味する。「トラウマ」ブームなど、現にACはそうなった。
ところが、そうしたことに、どえらく学者を含んだ「活動家」達は鈍感である。何故なら、学者は論文がカキコできればいい。活動家は活動出来うる(社会にアジテート出来る)コトができればいい。往々にして問題当事者が手段とすることが、目的になっている場合が多いからだ。社会にアジテートしたり文章カキコするぐらいで解消できるコジレだったら、それこそ大風呂敷広げる程の社会問題でもない。
ACでは多くの自助グループがつくられた。自助グループ迄たどりつけた者をサバイバーと呼んでいる。が、結局同じアキレス腱を抱える者同志、一時の癒しにはなれど、根本的解決の為には、いかにその自助グループからも自律するかという最低2回のサバイバルを必要としていることなど、あまり知られてはいない。
ACは個々人の「主体」の問題だから、単なる「連帯」だの「社会的承認」=意味付与ではナニも解決しないのである。