『ひきこもり』概念の余命

hotsumaさんの「ひきこもり」概念の余命は長くない。を受けて、「ニート」や「社会不安障害」に収斂される「ひきこもり」に強い違和感をお持ちになって「「ひきこもり」という語には、まだ運用益があるように思う」とueyamakzkさん。
しかしこの細分化は、様々な視点の違いが、結果名称での区別差異化を表すということではないだろうか。ともかく「ひきこもり」という言葉自体があまりにも曖昧すぎるゆえ、それを「ひきこもり=問題」とし具体的方法論をさぐる側にとってみれば、扱いにくい。
逆に社会/文化として総華的に網羅したい者にとっては、都合がいい。都合がいいが、総華的(=演繹)に語れば語る程に、個別具体的臨床アプローチから離れる抽象文学=論文となって、それはソコで思想完結して、実際の数多のひきこもりで苦しんでる人々と乖離してしまうジレンマに陥ってないかなーっと、危惧するんだけど。ueyamakzkさんが当事者として、時々とても論を繋げることが苦しくなってしまうのはそんなところなんではないか。
「フリーター」も「ニート」も問題としては多分ueyamakzkさんの推察どおり、「アダルト・チルドレン(AC)」のように一過性で消滅してく言葉であろう。
AC問題では、学者や思想家がナニをどう議論しようともその大半は「自助グループに期待する」的トーン以外の目ぼしいアイデアはついぞ出ず、もうソレは90年代の問題として学術的には終了。具体的には摂食や各種依存症という症状=帰納的アプローチからでしか個々の抱える問題に到達出来えてはいない。