日本近代の特異性

前回id:hizzz:20050226#20050226fn2で、「女の内面は女が書くべき(=書かれないから自分はそれを理解できない≒表現しない女の在り方が悪い∴男は女を理解しない状態が当然)」的言説が出てくる度に、トーフにアタマぶつけてアタマのハエ、目の霞を追い払えと、小一時間*1。。。とカキコしたが、なんでそんな言説が跋扈してやまないのかといえば、対象との距離の問題に他ならない。そして「対象との距離」とは、(もうウンザリするほどだしている)主体と客体の関係の曖昧さである。
日本には美術はないと言いきる浅田彰は「「現実性の寓意」以外に「ほどよいシンボリズム」と「物質的残余」が近代絵画の要件である」という。たしかに近代以降の日本はソレは脆弱である。id:hizzz:20050222でカキコした高橋由一は、マチエールから浅田のいう正統的「近代絵画」と(日本でない)大和なるものの融和を愚直に目指した最初にして最後の人物である。『鮭』や『豆腐』で見るように、リアルを発見し写し取る作業=視覚の快楽に没頭した高橋は、id:pavlusha:20050223さんいうところの「事象認識を、概念記号としてではなくリアルなトーフ」そのものと積極的に融合して対象との距離を、喜んで喪失してしまおうとする。その結果があの『美女(花魁)』に結実する。ところが、そゆリアルと一体になる高橋的方法論は、「旧派」として、画壇では退けられてしまう。高橋的リアルを継いだかのように、日本で書くべき写実を追求してた筈の岸田劉生は、仏留学派の連中とフュウザン会を結成し表現主義の傾向を強め、時代は白樺派となる。そして白樺派は「現実性の寓意」=モダンを思想とし(ユニバース)、全体主義の橋渡しをした。一方プロレタリアアートというものも起こり、クソリアリズムを追求しているようでその視点の固定は観念の産物でしかなく、それを埋め合わせようと拙速に現実問題を取上げるのであるが、そこが又「シンボリズム」ダケを強調する結果=ベタとなり、トータルな作品としての完成度を下げる一方であった。
…ま、それはともかく。そこまでいく前に、「新派」と「旧派」のカテゴリーにある序列優越意識に物言いしたのが、鴎外だ。

*1:無論、「男はちゃんとハナシしないでゴマかすから、女はソレを解らなくて当然」つーのも同様。