正しい理想家生活

なんだかんだエラソーなコトいってる御仁のその性的関係(セクシャリティ)をヲチしてみれば、大抵ソコにその本音が現れてたりするのである。兎に角、鴎外は「正しい理想家」として自己を表しめることに、もてる能力の最大級の勢力をつかった。それが優柔不断を是とした数多の文士との大いなる違いであり、鴎外をして文豪、カリスマたらしめてるトコである。かれの求愛してやまなかったのは「父性」そのもの。そしてそれはドコを見渡してもなかった。だから自分をして、あるかのようにふるまい続けることによって、日本近代の特異性である「脆弱」を覆い隠し、自己理想の実現、貫徹を図った。本当に「弱い自己」はあってはならぬものとして、「父性」にその弱さを塗り固め武装することを、日本近代と共に鴎外は選んだのた。そんな奴には、自他の深度を深めて時には自己存在を脅かすことにもなる〈個〉対〈個〉の対峙関係=恋愛そのものが不向きなのだ。不向きだからこそ、それを丸ごと理解し庇護してくれる強靱なしずかちゃんを欲するのだ。
父性愛を自己最上としながらも、他者にはそれを上回る愛を求める欲望を自己抑制するという激しい矛盾を抱えた彼の「激情」に報いた相手とは、もはや生身の人間ではなく、国家という理念であった。だがその国家思想が志向する近代こそが、父性を衰弱させ、前近代的な美風と家族=家共同体のぬくもりを、その存続の為に奪っていくのである。だから、正しい父性プロトコルとしては息子や娘になんと受けとられようとも、ひたすら必死に「愛情のような雰囲気」で周囲をおおわなければならなかった。
ようやっと最後に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と、等身大個人としての在り方を表明して、死んでいった。ただ、その「石見人」とゆーのは、よるべなく東京に出てきた根無し草であった森家の仮託の地=非リアル=どこにもないのは、言うまでもない。


…いま「正義」だの「国家」だの「〈帝国〉」だの「平和」だの「理想」だのフロシキ広げてる連中の中で、ここまでの気概と泥かぶるハラすえてる個人が、一体どれくらいいるんだか。。。