舞姫

始終「戦う家長」を基本的態度として装った鴎外は、内づらがとてもいい。陰気な漱石と違って、明治の男にしてはいやにマイホームパパやってるんである。あるが、しかし、小堀杏奴は「愛情のような雰囲気をひとりで作ってひとりで撒き散らしていたにすぎない」とバッサリ。娘の目はキビチー。とーちゃん立つ瀬ナシ、親父の悲哀(しくしく)。森茉莉が生涯をもって絶賛しつづけたからいーか。が、果して森茉莉のような活き方を鴎外は願望してたのだろうか。
孤独な「戦う家長」にゃ、同志が必要。『文づかひ』イイダ、『うたかたの記』マリイ、『安井夫人』佐代、『渋江抽斎』五百、『山椒太夫』安寿、、、彼の作品に出てくる女性は雄々しく戦うしずかちゃんid:hizzz:20050220のオンパレード。愛されるより愛することを望む。ただ例外は、『舞姫』。
舞姫の男女関係は、到底近代西洋のカップル文化=対等恋愛とはいえない。父と娘のような状態であり、あまりにも一方的すらある。薄幸の美少女エリスは、その家族の生活を抱えるケナゲな戦闘美少女像を表してはいるが、幼さとひきかえ?に、奇妙なまでに「主体」がない存在として扱われている。そもそも孤独を抱えてる豊太郎自体が最初から彼女に自己を解禁しようとする気持ちがてんでナイし、エリスもそんな豊太郎の主体に食い込もうとしない。もっぱら同情とか庇護がらみの慰みはあっても、両者の交流がナイんである。そんでもってエリスが発狂し、関係不能になって終了。…ようするに自己愛物語であって、コレのドコが「純愛」なんだか、と最初読んだとき中学生のワタクシはミョ〜におもった。
「発狂」をもってして「悲劇」とする向きがあるが、そんなのは悲劇でもナンでもない。もともと経済援助とお肉の交わりっきゃナイ=昨今ありがちな援交状態でしかないんだから。悲劇というのは、主体と主体の深度を深める過程でおこる様々な軋轢であろう。そゆ意味では、主体というものが明確でない日本の小説には、他者という主体も出てこないから、悲劇であるかのようなものはあっても、悲劇はない。たとえ残虐な殺人が起ころうとも、だれも受け止めるものがいない。ただ、うすぼんやりとした不安だけが、ただひろがって流れるだけだ。その訳は、さんざんカキコしてきたとおり、主体と客体の関係の曖昧さ故である。なんにせよ責任回避で突き詰めることのないトコロでは、悲劇すら起こらない。いや、たとえ起こったとしても認知され得ない。
そして、鴎外も又、それを突き詰めることを早くも放棄した。その早々と放棄した過程(=自然科学思想にプロトコルスタンスをおいた日本近代)の適応ぶりこそが勝ち組エリートのふるまいそのものなのである。そして、豊太郎のごとく内実の孤独を理解してもらう他者を欲しているのに、その願望を諦念視続ける。しかし〈女〉の理想像として、雄々しいしずかちゃんを生涯夢想しつつ、現実生活はエリスのような不思議ちゃんばかりを庇護しつづける立場なんでは、そりゃー「永遠なる不平家」であろう。なんでそーなるかといえば、それは『舞姫』で書かれているとおり、雄々しいしずかちゃんがいたとしても、その可能性を貪り、芸無能な不思議ちゃん状態に貶めるような「愛し方」=愛玩、そゆセックス・コンシャスでしか恋愛関係を許さなかった鴎外そのもの成立たせ方=弱い自己にあるからだ。それが鴎外を鴎外たらしめているなかで最大の矛盾であり、弱点であり、他の文士と同じように近代の敗者=主体獲得の失敗=優柔不断となる要因である。