永遠なる不平家

「自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のいない筈の所に自分がいるようである。」というのは『妄想』の中の一節。ハタから見て十二分に「成功者」である筈の鴎外がこゆこというんだったら、ちまたの下々は不平不満まみれでズブズブ討ち死である。勿論、これは「謙譲の美徳」なんかではないであろう。たしかに、鴎外は失敗してるのである。なににって「日本近代」そのものに。先にあげたナウマン論争がキーとなる。ナウマンはいう「蒸気船の走らせ方は覚えたもののその停め方を知らない」日本と。その調子で江戸期には粋でいなせだった文化は、(浅田彰が再三再四指摘してるように)すべて「土着」なものとして、劣位の取るに足らぬものを五章大事に抱えた「野蛮人」と切り捨てられ、それにかわって西洋文明的価値でもって至上最強とする。そんな軋轢は、近代からこっちずーーーーーっとやられて来て、その西洋文明の恩恵をいの一番に受ける上流知識階級だからこそ、ルサンチたまって、ブツブツ傍観者的「降りる」私文学…ってスジなんだが、鴎外は降りなかった。むしろ踏みとまって引受けようと苦闘する。
なぜなら、自分が直接明治政府の運営にたずさわった実務家だからだ。山崎正和はそれをこういう。

近代化を受け入れなければ日本の純粋な維持が可能であったかどうか疑わしい。伝統と近代化の矛盾を笑ったり悲しんだりしてすませられないのが鴎外の立場だとすれば、彼のとるべき論法は当然ひとつしかない。西洋的な近代化が世界史的に不可避のコースであることを前提としたうえで、それがせめて日本人の内発的な要求であり、伝統文化の本質と矛盾しないものであることを証明することであった。
山崎正和『鴎外』 ISBN:4101170029

だから、彼は文学=日本語をもってしてそれを証明したかったのだろう。