フジヤマ・芸者・ムスメ


これは20世紀初頭ドイツのイースター用のカード。日本娘がアールヌーボーしてる絵。顔やカールしてふくらませた髪形だけでなく、着物迄こんなに胸元みせてドレスしまくってる。
勿論、アールヌーボーこそジャポニズムの影響で華開いたもんである。そのほかにジャポニズムなイメージとして、マスカーニ『アイリス』、ギルバート&サリバン『芸者』『ミカド』など、世紀末西洋にとっては日本=お伽の国なのである。
そんなトコに、ハーレムだの砂漠だのが舞台の異国趣味な流行作家だったピエール・ロチが、目をツバをつけない訳がナイ。 ロチの小説は、永井荷風が生涯愛読したし、芥川龍之介もネタ元としたことがあった。ラフカディオ・ハーンも心酔してて、一節には日本訪問のきっかけともなったといわれているハナシに『お菊さん』がある。プッチーニの『蝶々夫人』の原形。
ロチが他のジャポニズムを取り入れた作家と違うトコは、実際に長崎に1ヶ月程滞在し当地の日本女性と〈結婚〉した経験が小説のベースとなっている点だ。しかしそれは、まー、はっきりいやーオリエンタリズム。そこでハナシが終わってしまうとアレである。が、この日本物『お菊さん』は、ロチの他のタヒチとかアフリカとかトルコの(ご都合主義の)恋と冒険物で大団円な作品と、どーも様相が違うのである。
なぜなら、主人公にとって『お菊さん』は、視線が、意志が、まったくかみ合わないのである。当然「恋愛」というべき西欧風の相互交流もない。ひたすら彼女を一方的に愛玩することダケが行為として成立する。そんな「とまどい」中で主人公は自己自明文明から断絶されたかのような実存的孤独さえ感じている。(ここいらへんは鴎外の『舞姫』とよく似ている)
そんな中、彼女の弾く三味線の音に唯一心を激しく揺さぶられ、西欧的価値観を持ってしてその糸をたぐりよせようとするが、その哀愁には主体の手ごたえはなく、かかわりえない。その理解不能は、いらだちとなり、出国する時にはそんな手ごたえのない実存をとりまく環境「日本」そのものへの侮蔑にまで変化する。 そうすることによって、この主人公は、自己の実存を、主体を取戻す。
当初は東洋の楽園の恋だった筈の物語は、こうして破綻する。