ジャパン・バッシング

日本が侵略行為をアジアに謝る論争に於いて、戦後のドイツと比較されるが、一番際立った違いが謝ったか謝らないかという論点なら、どうしてそうなのか考えないといけない。
ドイツの負は、「ナチス」もしくは「ナチスドイツ」という明確な区分整理ができたのに比べて、日本では靖国問題に象徴されてるように「国家神道」と「神道」、「大日本帝国」と「日本国」という切り訳がまずもって国内の愛国/反日派両者に整理出来ない…というかそういう発想にならないことが、ぐだぐだになる原因ではないかな。
無論、戦前戦後に渡って同じ人物がひきつづいて国のてっぺんに天皇という名でいたということはまずある。そういうことのキーに、「神道」をどう考えるかってことがあるだろう。反日派にとっては、「神道」=「国家神道」=「天皇」=「大日本帝国」というダンゴなんであろう。アジア諸国に於いても、日本の属国となった時は、「国家神道」=「天皇」=「大日本帝国」であったから、その感覚で物言いをするのであろう。
オニババ本のネタでカキコしたが、忌み嫌われる者=怨霊は清い祓い鎮魂しなければならないという信仰は、古くから民間の中にある。日本を戦争犯罪の道に導いた張本人というレッテルのA級戦犯というならばこそ、合祀しなければならないであろう。宗教的には。そういうことが、きちんと説明されていない。
それを勧善懲悪の一神教的見地から、「罪悪人」を「神」として崇める、もしくは戦争加害者(殺戮命令者)と被害者(戦場に駆り出され無駄死にさせられた&犯罪者にさせられた)を一緒にする「神道」=「正しくない」といっても、それは「神」の概念の違いであり宗教戦争でしかない。「信仰」の問題を「政治」に結び付けるからハナシがややこしくなる。だから、解決案として出ている千鳥ケ淵に政府が戦争慰霊碑たてて…というのは完全に政治パフォーマンスでしかなく、「信仰」側には納得できるものではない。無論、そうしたいのなら、そこに詣でればいいのである。
あ、いっておくが、ワタクシは「信仰」にスタンスをおかない人間である。が、他者がそうしたいという希望をもっており実行することには、それを「信仰」強制されない限りにおいてはなんの異論もない。
首相が参拝するのは、信仰の為でなく遺族票の為であるのは明白だが、ま、そんなホンネは政治的に言えないので、反勢力派につつかれる弱点であろう。そして、現にそのカードは内外とわず利用されている。端的に言えば「靖国問題」ってそゆショボイことでしかない。てゆーか、「靖国」を事大主義にもっていこうとする連中(思想の左右前後上下とわず)が、宗教を殊更に政治権力化させて問題主体を複雑にしてコジらす。
で、数多の日本人における「宗教」とは、建前な冠婚葬祭時儀式による「お付合い」、内面は問わない表面的なもの、おおかれ少なかれそうであろう。その文化的ふるまいの曖昧さが、他国に伝わらないから「不可解な日本人」となる。そしてそれを、投掛けて「対峙」しようとしても、嵐が通り過ぎるのを待つかのように「対峙」自体を避けようとする対処(参拝自粛)が、勧善懲悪の一神教的見地を含めた信仰派にとっては「卑怯」であり、反対派にとってはほとぼりがさめればまた参拝することになるのが明白な一貫性のない態度は、国外には理解不能で、「軽蔑」となるのであろうな。