政治的隠蔽

国連の常任理事国入りを悲願とする派は、明治100年の願望「一等国入り」を引き継いでいるんだろうな。「国連」って水戸の印篭みたく、それを出せば体制&反体制共に(むしろ反体制側のほうが信仰してる?)思考停止する権威となっているのはいつ見ても可笑しいことだ。
「誰かのお墨付き」ってことがヤバいって考えた自虐史観側の一部は、「沖縄」とか「アイヌ」とか「在日」とか「サンカ(山窩)」とか「弱者」とかに「共感連帯」=ハゲシイ幻想恋物語を紡ぐ。んでも、それってアンタ自身のことぢゃなくって他者に憑依してるコト(皇国史観と同じように「大きな物語」=幻想の衣を身にまとうことで自己を隠して正統化する文脈方法)ぢゃないのかな。最も「民族」「地域」って、これも「帝国」「国家」と同等の近代イデオロギーだったりするのぢゃあないのか?で、もっともワケカメなのは、その「沖縄」とかに共感をよせる「反日/抗日」社会派な日本人な方々、貴方達の主体の基軸(責任の所在地、等身大の自己)、自他の境界線はドコ?
等身大のそこいらのぼんくらな「ナニ考えてるか判らない主体ナキ日本人」という第三者(&他国)からつきつけられてるテーマは、体制派&反体制派のこうした御都合主義な政治協調行動によって、いつもシカトされるのである。
という訳で、「士」以外の下々なウンコずわりにとっては、インテリげんちゃんの啓蒙史観はあまりにも内向きの論理=「AならばB」な一点透視図法に見える。掲げる情熱の割に「A」でない前提をつつくと瓦解するヤワな単純構造だからこそ第三者が共有する歴史認識と到らない。なのに核心迂回(=お前はダレだ問題=主体ハズシ)の為に、その視点固定強要する一点透視図プロセスを、こりずに繰返してるのではないだろーか。
「キミ達は政治が好きすぎる」というのは、svnseedsさんの名文句だけど、政治に夢中になりすぎて見ようとしないトコに問題の核心があるとワタクシは考えてる。そしてそうしたトコに踏込むのが、社会学だったり文学(哲学)だったりしてる筈なのに、昨今何故かそうしたトコの一部が積極的に政治化して全体主義的傾向を強めることは、ヤバすぎないかと思うんだけど、どーなんだろう。

奇妙なふるまいや異なる価値体系の理解について「彼らの村や家が〈世界の中心〉にあるのではないと主張するのは軽薄である。」とそれらの脱神話化は役に立たないというエリアーデは次のようにいう。

〈世界の中心〉という象徴体系と古代社会の生活におけるその役割を含むこの信仰を受け入れる程度に応じてのみ、人はまさに自らが〈世界の中心〉に位置づけられるとみなすことでそのように構成される存在の諸次元を首尾よく発見するのである。

ミルチャ・エリアーデ『聖と俗―宗教的なるものの本質について』