主体ハズシの方法論

そゆ方法論自体は現在でも、支配/反支配に関らず到る所に引き継がれてるんじゃなかろうか。
そういう方法論文脈自体の上に己の立ち位置を成立させ、同じようなシステムをとる他者陣営を政治批判しても、それは言葉じり=為にする論争による自己アイデンティティの確認に終わっているんじゃなかろうか。無論それが相互確認儀式で済んでいるトコが、内輪の予定調和な平和といえば平和なんだろーが、しかしそゆシステム制度外の第三者(&他国)にはワケワカメ。
だから体制派も反体制派も、いつも誰かのお墨付きを頂く上でしかハナシしない(自己責任解除)から、「主体ナキ日本人」はナニ考えてるか判らないとなり、結局ドコからも信用を得られないってカンジかな*1
その第三者に「信用されない=認められない」ってトコに憤っているのは、自由主義史観側も自虐史観側も実は同根だったりして。そしてその為の方策ツールが、自由主義史観側(&体制派)では理想日本(≒神国日本)な理想自己追求だろうし、自虐史観側(&反体制派)では自己滅却による理想自己追求。でそれって「無私」=「絶対に無垢なる客体そのもの」なアタシは正統で完璧って欲望が原点であるトコでこれまた奇妙に一致するんだなぁ。
それで、両方共、その自己の正統性を完璧にすべく闘争活動するから、掲げる「平和」とかの割には、少しも平和的でない。なにしろ「憤る」ことを原動力としてるから、対等関係とか交渉とかに応じること自体が自己の正統性敗北に直結すると思い込んでいる。自己の正統性を担保しない他者のハナシなんか、てんで聞く耳もたない。もたない。だから、いつも一方的だったりする狂信的なひとが多い。

*1:レヴィ=ストロースは、ピエール・ロチの「日本人とは極度に複雑な人間」id:hizzz:20050505ということをひいて、実際に日本を体験した後と前とで変わらなかった印象を「スリッパの弁証法」と現した。>「一民族学者のみた日本」