新規性

日本というのは不思議な国で明治の四民平等になってから新たな身分制度というものが始まりました。それはなにかというと、別に“華族制度”のことではなくて、“遅れている、進んでいる”ということを尺度とする、開花――知性に関しての身分制です。高邁な理想を掲げるインテリがトップにいて、その下に学生が続き――遅れた大衆というものがいるのです。

『完全チャンバラ読本』橋本治ISBN:479669384X

たしかに現代でも、自称インテリ様と学歴を盾とする学生様の啓蒙(&教条&折服)主義の高見のまなざしは濃厚に漂ってるから、「アカデミック」って奴はこれだからもぉ〜(苦笑)な問題で終了、、、、とするのは早計かも。“遅れている、進んでいる”これがポイント。そういわれれば、誰しも身に覚えのあること。革新、スノッブをもって良しとする。最近ハヤリの「勝ち組/負け組」カテゴライズの基軸も、これだしな。
知識=情報が、「アカデミックな場」ダケに集中してたならば、博識インテリを頂点としたヒエラルキーでいとも簡単に整理がつく。学問権威な皆様はとかくそうしたい。が、そうは問屋がおろさないのが有象無象な現代、めんどくさいので「高度情報化社会」といっておく。
学問権威なトップダウンではなく、森羅万象の情報を等価値にして1情報を起点としてそれに関る人々の理解深度や関連周辺知識の広さや対処能力をボトムアップして見ていけば、そこではアカデミーのこしらえたヒエラルキー=“遅れている、進んでいる”の価値基準(AならばB←シツコイ)なんか、いとも簡単にひっくりがえる。
万物流転の世の中では、人生の俎上に載せる情報量が膨大で、その全てにおいて“進んでいる”ことなんか到底、不可能となった。そもそも“進んでいる”こと、いや、ドコが進んでてドコが遅れてるかなんてことすら、その対象情報の深度や拡がりが判らないと、そういう付加価値(流行)も生まれやしない。そしたら、やることは、情報をカテゴライズして優先順位をつけるしかない。が、しかし、既存カテゴライズ=学問にはまらない情報のほうが数多である。そうすると、「アカデミックな場」以外のカテゴライザー=専門おたく/マニアが登場する。
ハイカルチャーのもつ伝統ヒエラルキーに対抗する一番簡単な手は、今までにない「新規性」これっきゃない。そうやって既成ヒエラルキーをひっくりかえしたカウンタカルチャーだったりもしたんだが、一度そうやって「権威」のしくみに物言いしながら多くのそうした人たちは、その成立した自説を「権威」のしくみを使って「負けない」自己存在誇示に昨今走るようになって、自ら規定した革新性にも“遅れて”しまって失速してるということか。
ということで、“遅れている、進んでいる”という価値基準ダケは、今だはびこってるけど、それは事象をある時点で固定した瞬間的な点をいいたててるにすぎない。