正義

id:lovelovedog:20050611#p1さん経由。

当たり前のことなのだが、「不正」を告発するにはまず「不正」が存在しなければならない。ありもしない「不正」を糾弾することは出来ないからだ。だからこそ「不正」を告発しようとする人たちは「不正」を待望するようになる。これは多分必然的なメカニズムだと僕は思う。僕たちは「不正」に依存せずに「正義」の側に立つことが出来ない。

「サーバ移転と台風の日」Dead Letter Blog・2002年7月16日
http://deadletter.hmc5.com/diary/past/2002-july.htm

イラク戦争では、911以来、あーだかこーだか言いつつも、思想の上下左右遠近どの陣営もいつソレが始まるかと待っていた。いざ進軍生中継が始まると、爆撃図がいつおこるかいつおこるかと、普段見ないTVをつけ続けたが、バクダットのハイウエイにときおりとおる車という、延々なんら代わり映えしない「凡庸」な図にあきあきしてスイッチを切ったもんだ。
こうした紛争を糾弾するときにもっともイキイキする人々がいる。たとえ「平和」といってみても、ワタクシも含めてひとは中々凡庸=日常には耐えられないのであるんだよなぁ。いや、ひょっとして、それがコンフリクトの一番の原因となっているのでないかと。
こうした「正義」とか「正統」の不健康さは、ワタクシもしつこくカキコしているが、すこし軸を変えてこの成立構造を別の言葉を当てはめて考えてみる。