好き嫌いと共感

もう、お高尚な言葉の羅列による偽善はコリゴリ。だからアタシはアタシの素の感覚をたよりにやっていくのよ。ヤなもんはヤなんだし、好きなもんは好きなんだから、もうその感情以上の奥なんかないしー。ピュアで純粋(ハァト)。と、こう思っている向きも多いに違いない。
なにがしかのコンフリクトが起きてバッシング等で険悪になっている場面では、「おもいやり」とか「共感」といった言葉が、昨今水戸の印篭のように登場する。信頼と寛容という言葉でもいい。共感を妨げる要因は、対象に対する敵意であり、その敵意の元は、嫌悪から来ていると考えるひとは多い。それは、敵意ないし嫌悪を抱いてる当事者が、自らのそうした感覚を根拠としている場合が多い。「だからお前は嫌われる」すなわち「嫌われる理由」である。「私の不愉快の原因はお前にある、だから嫌悪するのだ」というのは、良く聞くハナシ。それで、善意の第三者がそのハナシに耳を傾けて納得したりもすると、成程、原因は嫌われる対象者にもあるということにも、往々にしてなりがちである。対象者から何がしか「被害」をこうむり、それが不愉快感情をよびおこした、さあ、どーしてくれる!という敵対的「怒り」。そういう怒りの正当性理論は、いじめ問題から戦争まで幅広く適用されている。
が、しかし、この原因と結果の組立て順序は、よくよーくみてみれば、往々にして険悪になってしまってから合理化する為に作られた「後出し理論」であることが多い。ニコラス・ハンフリー曰く、ひとは他人が何かしたからでなく自分が何をしたかによって嫌う傾向があるという。敵意や嫌悪はそれが自己に向かおうとも他者に向かおうとも、自己充足の感情なのである。
えっ?とおもうかもしれないが、“好き嫌い”という風に感情の裏表として一緒にされる「好意」とか「友好」「愛情」でもって考えると、これはそんなに在りえない話しでもない。確かに、好きだって思ってると、どんなトコも良く見えてきてしまう。「あばたもえくぼ」ってことだ。その反転で、ヤだって発想が浮かんで、それが止まらずにその浮かんだ感情行為を自己反芻学習すればする程、「坊主憎けりゃケサ迄憎い」となる。と、いうことは、ひとは対象によって感情を害されるのではなく、常に発想を自己決定してるのである。
“好き嫌い”は発想による感情行為学習の結果だとすれば、対象者の現実の行為がなくとも、「自分がそう思った(気がした)」という空想妄想でも、それはよいのである。「好かれる嫌われる理由」とは、対象者に原因があることではなくて、そうした感情行為をもつ側に好き嫌いな理由(ジャッジする必然性)があるのだが、それがごくごく個人的私的(存在)理由からくるものである故に表面にはでてこないからである。ちなみに「好かれる嫌われる理由」=「皆に好かれそう/嫌われそうな人だから、私も好き/嫌い」というパターンは、自らが幅広く学習した典型的な感情行為結果といえよう。しかし単一価値を持って良しとする同調的気配の濃厚な場所では、こうした「その場の共感」に過剰適応するひとも出てくる。
なぜ、コンフリクトにこれ程「おもいやり」「共感」が叫ばれつつそれが無力でコジレるケースが多いのかというと、こうした原因と結果を当事者及び善意の第三者を含めた関係者が取り違えたままで対処して、傷口を開いていることが大きいのではないか。…といって、あんまり特定個人の具体的内面にずかずかと入り込んで消費してしまうデリカシーのないやり方も、これまたマズい。「おもいやり」「共感」というのは、一見、平等な視線のようでいて、その実思想的基軸は常に誰かのトコにある啓蒙支配/従属行為だったりする(「みんなって、誰」問題)。それを受け入れるか否かの個人では、例の「皆に好かれそう/嫌われそうだから…」という行為学習が奨励される。
とまれ判断基軸の曖昧な「感情」を強調するからこそ、心の奥底といった風な色んな個人的感情を土俵にあげてしまうことになり、関係者は果てしない感情学習行為が続くダケでワヤクチャになるのではないかと思う。