都市部族

上野俊哉『アーバン・トライバル・スタディーズ―パーティ、クラブ文化の社会学』

アーバン・トライバル=都市部族としてのパーティ・クラブ文化の中に、後期資本主義への「批評」と「抵抗」の契機を見いだそうとする本。友人が「考えるトピックは多い」と熱く語っていたので、熱意に負けて?読む。確かに、いろんなトコからいろんなモンをひっぱり出しているが、その意図が成功してるとは、言いがたい、それでも理想を考えていきたいみたいなことこそが、希望=スピリチュアル?なのかな。
著者は「トライブ」を感情や情動によって成立つ共同性と規定し、その「トライバルな連帯」が、既存産業の商品意匠形態とは別に独自に消費する行動を、表現文化として捕える。
んんー、テクノやハウス系音楽ジャンルに於けるコミケ活動みたいなことかな。と勝手に変換しながら読む。60年代サイケから始まるトランスの歴史を踏まえつつも、随所にイデオロギーチックな上野節が炸裂するので、音楽書な感じでは読むの大変。

感情や情動には連帯を促進することもあるが、カルト的視野狭窄になったり、排他的にもなるが、それを「超越」(=真理と一心同体)ではなく、一時的に「超越論的」に日常から離脱し、再編しなおすという「スピリチュアル」にアクセスする〈非〉(6〜70年代的〈反〉でも80年代的〈脱〉でもない、「(日常から)降りる」)というスタンスそのものに、さかんに「批評」と「抵抗」の意味付与をする。>『クリティカル・トリッピング

…なんだか大変なコトになってるのである。「社会学」を飛躍して詩的ですらある「抵抗へのユートピア」という語り口は、それが故にパーティ・クラブ・レイブ文化全般なハナシにさえもなりがたくて、ノレない。パーティやクラブやレイブに何でそんなイデオロギーがなんで必要なんだ?つー素朴な大疑問があるんだが、「活動」にはすべからく後期資本主義への「批評」と「抵抗」がなけらばならないというイデオロギー一派(要するにサヨク)であることが自明なスタンス以外はここで揮いにかけられる。成程、7〜80年代ニューエイジ文化がこうしたシステム?に読み替えられるから、サヨク的「批評」と「抵抗」でなくても、クボヅカ的「批評」と「抵抗」も同等に生まれてくるのだろうなぁ。

「空間」の確保・占有・変容は、不動で実体的な「拠点=砦」「解放区」を作ることではなく、既存の社会から逃走・撤退しながら、可動的に「無数の小さな飛び地」を作っていくことである。

いや、別にクボヅカを待たなくても、日常を降りつつ世間に対して「批評」と「抵抗」でストリートで連帯活動してる都市部族の国内最大勢力は、パーティ・クラバーぢゃなくって、族〜ヤンキー。あと、80年代以降のニューエイジ系列(シャーマン文化)を語るならスピ/メンヘル/鬼畜系を、こうした独自展開をしてる地域性(&暗黒面)現状をカットするのは、「カルチュアル・スタディーズ」学としてバランスを欠いてないか?という疑問は、大声でいっておきたい。