嗤う日本のスノッブ

北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』

反省〜アイロニーという切口で学生運動から、クボヅカ/2chまでを論じる。

私は今後も、リベラリズムの日本への土着化を、なかば敗北覚悟で煽っていくつもりだ。

と、ゆーことで、これも恣意的「ナショナリズム」論。
80年代迄は理路整然としてるのに、90年代以降(「ポスト80年代」と記述されてる)の論調がなんだかタコ壷で迷走してる。80年代の反映の根拠として論のベースに使っている、ビックリハウス〜西武セゾン文化(TV/広告)は、90年代に入るとマスがとれずに拡散するからである。そこでハウザー・ナンシー関を出して全共闘を引きずった80年代的な糸井重里を批評するのだが、破綻が起きている。
「マンガ論争」「ピンクレディ論争」に於ける稲葉三千男と津村喬の論争を、言語を解読してしまう知識社会学vs現象的に見るメディア論として、知識社会学の方法論の限界を現す事例として揚げておきながら、著者はナンシー関をその文章でもって「テレビ批評」あると「反時代的思想家」と持ち上げる。80年代的な消費社会的アイロニスム(の最良の部分)として、、、あれれ。。。彼女は「消ゴム版画」と文章のセットで、ナンシー関なんだけど。別にナンシーをこき下ろす意図はまったくナイが、彼女を「思想家」として持ち上げるのは正確ではなく、むしろそうせねばならない程、90年代以降は「批評」だの「メディア論」だのという方法論がナンの役にも立たなくなったってことなんではないか。オウム後に明白になる思想の総崩れは既に始まっていた。通史を書いてるのに、なんかソコごまかしたらダメぢゃんって、感じ。
TVというマスの80年代論から、クボヅカ/2chといったかなぁ〜り「偏狭」な場所で、ポスト80年代を論じる。2ch論は、前に岩波『世界』が出たときに叩かれた通り、あまりにも部分でしかない。内輪空間=スノッブがすぎる所での「ロマン主義ナショナリズム」の言挙げをしてみても、果してそれは実証たりうるのか?大体、ニューエイジ文化的スピ系ロマン(オウム)の対抗としては、ワレザー/鬼畜系の方がネット文化としてははるかに層は厚く、文化貢献という意味でも重要ではないか。
人間(内面)の形態ってことで、60〜70年代前半「自意識なき内面」、80年代「内面なき自意識」、90〜00年「内面なき実存」としてるけど、「リベラリズム」自体そのものが言葉ダケある、タコ壺化したイロニーゲームみたくなってるような気がしてならないのは、ワタクシだけですかねぇ。。。