日常の祝祭化

鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』

今日的若者を取巻く現象を主題としながら、フリーター、ニート、監視社会、ケータイを通した、テクノロジーに担保された祝祭を生きる自己に焦点をあてる。

社会学がこれまで想定してきた自己は、社会関係の中で自分に期待される役割を取得し、それを統合する自我を育て上げる「社会化(Socialization)」の働きを非常に重視してきた。しかしながら、ノンリニアなモードの個人化が進行する社会においては、他者との関係の中で必要とされる役割(me)を取得し、それを的確に演じ分けるアイデンティティ(I)を取得する、といったような「社会化」のプロセスは弱体化せざるをえない。むしろ必要となるのは、場面場面に応じて臨機応変に「自分」を使い分け、その「自分」の間の矛盾をやりすごすことのできるような人間になること―いわば「脱-社会化(De-Socialization)」なのだ。
「脱-社会化」された個人が、現実の社会を生きる上で必要とするのは、現在直面している社会関係の中で期待される役割を正しく演じるための感性であり、その感性の問い合わせ先としてのデータベースである。

このデータベース消費というキーワードで「オタク系文化における萌え要素は、じつはプロザック向精神薬とあまり変わらない」という。劇場化社会つー言い方は、80年代によく聞いた。もう、既に、80年代的生活というのは、非日常の連続だったりしたのであるな。
北田の言う、反省の徹底故に生じる嗜癖と「繋がりの社会性」は、著者は、我思う故に我有り=「反省的自己」リニアモードと、我は我なり=「再回帰的自己」ノンリニアモードの差異で区別すべきという。で、そのノンリニアモードは社会学にはなかった概念だという。
著者はいくらそのデータベースが完備されたとて、その「「自分」の間の矛盾をやりすごすこと」が出来なくて立ちすくむ「自己への嗜癖」は、確固たるアイデンティティに基礎づけられること(反省的自己)を必要としない社会の不可避現象だとする。そして、一貫することが困難な個人の選択は、アドホックになり、共同体を巡る感情も場当たり的であるとする。「共同体」という構造維持ではなく、「共同性」という「繋がり」の瞬発的な盛り上がり=カーニヴァルこそが、集団への帰属感の源泉とする。       
そんな快楽瞬発生活に上野は、サブカルに「個人主義の集団的な表現と称揚」やアイデンティティの「自己表現」しか見いだそうとしない若いカルスタ研究者にいらだっている。に対して?、おもしろいかどうかだと、つまらなくなったらいつでもその祭りは放棄されてしまうと、サウンドデモピースウォークなどのカーニヴァル化する政治のサスティナビリティのなさを指摘。あははは。
なんだかあまりいい未来を予感させない万物流転状態への具体的処方せんは、示されてない。
んんー、いわゆる取上げられる(イケてる若者)文化にのっとったライフスタイルは、セオリーどおり「祝祭」であろうと「日常」であろうが「自己」であろうが「つまらなくなったらいつでもは放棄されてしまう」ということも、言える訳だしなー。それこそ80年代にアキたように。

いや、そもそも社会学がこれまで想定してきた自己」=主体とやらを、この地日本で、ひとに切に必要とされ獲得しつづけてきたんだろーか?という、これまた基本的なギモンがぬぐえないことは(ワタクシ今までにもシツコクシツコク書いてきてるんだけど)、大声でいっておきたい。元々、あんま社会化されてない人々*1に対して「脱社会」とか「降りる」とかいわれても、それはドコのダレのお話し?っておもうばかり。なんかずーーーーーーーーっと下々は、ノンリニアなまま「ええじゃないか」でやりすごしつづけ、単に建前権威(インテリ&エリート様)が勝手にフロシキ折り畳めずにぐずぐずになったというハナシのような気もすごくするんだけど、、、んなのはワタクシだけですか、そうですか。。。


現代のスタイルは、上野本が強調するリズム(リフ)=外部刺激の反復による高揚感(トライブ)と、北田本がうっすらとふれ鈴木本がモデル化した自己の躁鬱(リニアとノンリニア)の反復の二通りのうねりの組合わせで、説明できるような気はする。が、その説明できうる部分も一時現象でしかないのは、なんでだろ。多分、状況の流転と拡散、それこそがノンリニアでしか捕えられないからなんだろうけど。だからこそ、基準値を社会ぢゃなくってそこに生きる〈個〉にもってきて、「どーするか?」ってことがやっと俎上にあがってくるんだけど、〈個〉の在り方ということをどうとらえるかということに「社会学」って、そんなに不向きなんでしょーか?>エライしと

*1:なかよし=横並びを良しとし、突出を避ける処世術。米国がうるさいから自衛隊出して、中国がうるさいから靖国自粛してという戦後「配慮外交」は、ノンリニアな在り方そのものだよなぁ。