イロニー的に肯定されたリベラル

前回id:hizzz:20050629の上野本/北田本/鈴木本のmyヨタに、ふみあしさんより丁寧かつ熱いコメントを頂いた。感謝、感激。

われわれはカルチュラル・スタディーズを「サブカルチャー研究」や「大衆文化研究」に限定されるとも思っていない。カルチュラル・スタディーズは「国民国家批判」と「サブカルチャー研究」の間、あるいはその非かの問題の立て方との間にあって、つねに動いているような一、姿勢にあるとわれわれは考えている。

上野俊哉/毛利嘉考『実践カルチュラル・スタディーズ』

と、ゆーことでカルスタは「「国民国家批判」であると同時に、それ以上に日常生活批判である」と定義し、文化=政治な思想啓蒙モードばりんばりんなロマンなんだけど、一方それから距離をとってる?北田本も又、(前回引用したように)「敗北覚悟で煽る」と、なんだか噴き出ている。が、これ同じようなエモーショナルな過剰に見えるんだけど。まあ、センセイ方は、理想啓蒙の戦略としてやっていること=実践なんでしょうが、「学問」的立ち位置=権威を背景として放つイデオロギーアジテーションは、やられてる方(読者)としては、ちと不誠実に感じる。ま、だから、この手の本はいくつか立ち位置の違うものを一緒に読まないと、偏向してワケワカメになる。
80年代を実際に生きたアタマの悪いワタクシとしてはどうにもその常に付随する「あえて」のようなエクスキューズの多発は、論理化できえない部分のある種の飛躍であり、告白することで自己完結してるかのような自虐?でもあり、その論理と理想願望の飛躍=曖昧な部分を埋める行為自体が悪しきロマン主義を呼び起こす原因になっているのではないのか、とも。
ハゲシイ違和感の原因は、学究者が自らのツールとする学問方法論で事象を現実に繋げていく時(=実践)に、整合性ある理論でなしに、「超越論的」だの「あえて」だの「敗北覚悟」だのという妙な心境精神性(=ユートピア&イロニー)を持ってきてそれを全面に掲げて、曖昧なトコをゴマかしながら、自らの理想でシバキ煽る「全体主義」に行こうとしている精神主義信仰告白なトコ。それは、ナショナリズム/非ナショナリズム関係なく、過去のロマン主義が辿った破綻と同じプロセスをくり返してはいないのか?それは果して、「リベラル」なのか?