批判のその先

内田センセの繰出す美文な言説は、自説成立の為に選別支配した対象者を囲い込んで多元価値/外部/オルタを失わせるのだが、その囲い込みに対して外部と内部の狭間である自分の優越支配的立場を巧妙に利用操作する傾向(「第三のスタイル」の分節付与権をにぎる)が強い。だから、信者は御神託を聞く以外に手がなくなる。一番の問題は、そゆ自分が「加害者」になりうる可能性(=外部/他者)とそのストッパーが、その思考システムから削除されてることだ。だが、しかしこのような仕儀は、その文章テクや思想に関係なく、実は、ワタクシを含めて誰しもハマりやすい方法論である。(@sivadコメント欄)
このようなレトリックに対してはid:ueyamakzkさんが、自己ダイヤリーにて、新たな視点を立ててくださった。

内田氏の発言には、魅惑と反発を同時に感じる。そうして、内田氏を的確に批判する発言には、興味深いものが多い。「興味深い見解を引き出す触媒」としては、内田氏がやはり重要なのではないか。――とても失礼だとは思うが、今はそのように感じている。

Freezing Point「生産的な意図の有無」
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20050714

ワタクシはこれを「失礼」とは想わない。むしろとても重要なことだとおもう。批判=排除ではなく、むしろそのようなトコから「外部」を見いだしていくことになるのだと、考えている。
さてワタクシの遭遇した例で考えてみると、ワタクシのカキコに対する上野俊哉(Toshiya the tribal)さんのコメントになる。id:hizzz:20050702
ここで上野さんは「あなたにとっては比較しても意味のない思考だと思います。UTSは。」と言われているが、ワタクシのカキコは「自分(上野さん)にとっては比較されても意味のない思考」であったというほうがより正確な心境なのであろう。だから「乱暴な要約はご遠慮ねがいます。」となる。
しかし、ワタクシは意味を見付けたからこそ、こうしてカキコしている。引用以外の部分の語彙は、ワタクシの中にあるものを当てはめ変換するといったスタイルをとっているので、語彙の違う著者にすれば言ってもいない妙なことがカキコしてある「乱暴な要約」と映るのであろう。しかし、ワタクシは本の宣伝広報の請負契約をした訳でもないのである。無論、こうしたワタクシのカキコも、又、様々に受け取られるであろう。公的公開されたものを取捨選択する権利は、その発信元ではなく、読み手にある。
どこかにマスターがあってそのマスターを一字一句換えないよう上意下達な単線で伝搬することが唯一正統であるコミュニケーションなのではなく、ノイズ/誤解/脱線も包括したそれがトライブの面白さだと、ワタクシは考えている。いや、そういうコトが書かれていると想ったのが、UTSを購入して読もうとした動機でさえある。