ふるまいによる齟齬

さて、myカキコに対する上野さんのコメントは、

通じる奴にだけ通じる話でしかない。はじめから。
若者が「躁と鬱」のサイクルで労働に向かっているとかいう話は関係ないし、興味がなくなるとすぐに引いちゃうような先進国ののどかな消費型カーニヴァルにも、「抵抗のユートピア」を夢見る階級闘争ヤンキーにも関係のない、もうちょっと世界の愚連隊とひそかにつながっている議論のつもりです。

クボヅカや死屍累々のことはわかりません。それは厳しいシバキではなく、単なる近代からの滑り落ちのような気もします。

Toshiya the tribal http://d.hatena.ne.jp/hizzz/comment?date=20050702#c

関係ない=外部=切離しというようにとれる排他的コメントがなされたのだが、著書では以下のようにも書かれてはいる。

(トランス・クリティックに関して)
自己の構築、表現文化を通した経験の記述を「生きたアート」とするウィリスの視点は、複数のトライブ間の矛盾、対立、軋轢のなかで生み出される「集合的アイデンティティ」の構成をめぐる自己記述として位置づけ、実践されたとき、ヒューマニズムの価値観に回収されない力をもつことができるだろう。
むろん、そこに調査する者とされる者の対立はもはやない。絶対に自分を理解しないかもしれないトライブに向かって、自分のトライブの位置を説明し、相手を自分のがわに巻き込み、自分もまた別のトライブによって価値観やモラルを変容させていくプロセスは、「エスノグラフィックな詩学」によって自己と他者の出会いを生産すると同時に、ありうべき自らの変容を自己記述する実践にもなっているだろう。トライブとトライブの出会いには、まるで恋愛のそれのように、互いに模倣し(損ない)、「学び逸れる(unlearning)」身ぶりの交錯がある。

(ヤンキー等ローカル文化に関して)
たとえば、日本での野外やクラブのトランスのパーティには、かってなら「ヤンキー」と呼ばれたはずの十代のトライブが多くいるのが見受けられる。彼等は違うディケイドと文脈であれば、「暴走族」「竹の子族」でもあったようなトライブである。

都市(化)からの自律(自立)を目指すローカルの人々(ネイティヴの文化と生活)と、都市から来たアンダーグラウンドサブカルチャーの重なり、関りを少しずつねりあげていくことは、「都市」(中央)を介することなく、ローカルの土着のトライブと都市のトライブが「接触」(コンタクト)する―そこには対話も対立もあるだろう―機会をもたらすことになる。

上野俊哉『アーバン・トライバル・スタディーズ―パーティ、クラブ文化の社会学』

ワタクシとしては、「いってるコト」と「やってるコト」が違うぢゃんと激しく感じたのであるが、これはコメントを頂いた事後的なことである。
では、なぜ、ワタクシはかかる疑問が本を読んだ段階でわきあがってきたのかというと、部分部分は上記引用した通りなるほどなと納得する文章があれど、それが深く追求/検証されずエピソードの羅列の1コマとなり掲げる形而上的理想論に数珠つなぎされたものの、どうにもリアリティを持ちえないからである。コアな「世界の愚連隊」と御本人が繋がってる理想状態は述べられていても、ヤンキーはおろか、サブカルの中心をなす都市中産階級の若者が、どーやってそれにコンタクトするのかは、不自然な程、まったくスルーされている。例えば上記引用したヤンキーに対しても、それならどーやって具体的に「関りを少しずつねりあげていく」のかという一番必要で重要であることが記述にはまったく見えない。それが、「「やってるコト」の制約がそのまま「いってるコト」に投影されてしまってそこに限界が見えてしまう。」(@id:mRirikaさん)ということであろう。だから、ワタクシは、「パーティやクラブ文化の社会的効果(@本のオビ巻)」「トライブ」とさかんに言っておきながら、コアでない諸現実社会とのトライブが見えないこの本にちぐはぐさを感じたのであろう。
で、果して御本人からその限界=「関係ない」「通じる奴にだけ」「愛がない」が率直にコメントされた。この世界を狭めるふるまいに、ワタクシとしては、理想論(=脳)とふるまい(=現実/身体化)のちぐはぐさを益々強めることとなった。それを自覚しておられるからこそ、トランスというところでパーティと理想を繋げて全てを一つにして整合性を持とうとされてUTSを提唱されたのであるかもしれない、が、しかし。少なくとも、ワタクシのコメント欄での御本人の言動は、あまりそれはうまくいっていないようだ。理想と実践の差が大きい程、その間をどうやって繋げるのかということに対するスキルのハードルは高くなる為、死屍累々となってきた現実に、それを埋め合わせる言説は見受けられない。そのふるまいは、生きにくい社会を批判する「反グローバル」を掲げつつも、UTSはひとを選別する思想であり、id:hizzz:20050629#cでふみあしさんが真摯な熱意をもって力説されてた「(ダメ)サヨク・ノリの擁護」理想もはじきとばしてしまう、狭いもの=トランス・エリート志向(パンピーよりステージ高い優越感にアディクト)と読めてしまう。理想に性急な欲望のあまり他者へのマッチョなシバキに陥ってて、ひとに優しくないなぁ〜と。
しかし、こうした(著者意図と違うことを解消しようとする急性な)コメントには、著者と著作を別けて考えエッセンスだけを堪能するという思考方法(「テクスト」ってのかな?)は、おおいに価値あるものである。一番上に引用したueyamakzkさんの「生産的な意図」もそこにあろう。が、内容が社会/コミュニケーションを扱ったものだけに、著作時点から考えが変わった(転向?)というのならともかく、著作内容を誇示しつつ著作内容を打ち消すかのような著者プレゼンス行為というのを、関係ナイ門外漢の他者のコメント欄で行うということが、UTSの「「集合的アイデンティティ」の構成をめぐる自己記述として」社会的効果的意義があるのかどうか、何とも首をひねるばかりである。