未知 

しかし、関係ナイといわれれば、myダイヤリー全体で言及されている全ての事柄は1ミリたりとも考えなくとも充分、いや、ヘタに触れないほうが、豊かでソツない人生はやり過ごしていけるであろう。が、その関係ナイとおもった外部/オルタへの窓口「興味深い見解を引き出す触媒」としてのツールは、与えられるものではなく、自分が発見していくものである。で、あるので、敵/見方の区分=批判=敵は切って棄てるという方法論ばかりを採用していると、外部を喪失する。ということは、内部も消耗し貧しくなるというということでもある。それは自分の余剰でもあり、未確定の部分ともいえるであろう。そゆ人生方法論は、無論、誰に断りをいれることなく個々勝手に営めばよいのである。
ただ決定論的に生きる方法は、スッキリして明快であろうが、先に「敵/見方の区分=批判=敵は切って棄てる」とした決定は、あるタコ壷の入り口である危険性は否めない。それは暫定解にとどめておかないと、修正がきかなくなり、状況や他者が変わる自己が変わるという可能性を喪失した排他/独我論に直行してしまう。それが、外部を喪失するということだろうとワタクシ考える。>「第三のスタイル」をハナから削除した上に論理を構築しても、ナニをどうやっても、オルタは出てきやしない。(@sivadコメント欄)
が、いくら「批判」がトライバルしても、「うちら判ってるよねー」「ねー」「あいつらバカだよなー」「なー」という同調集団ノリを続けるとするなら、いくらターゲットの矛先をデカイところに合わせても、唯の不満解消の為の「消費行動」=外部を使った刹那的内部消化でしかない。それが学校であろうが、ネットであろうが、クラブであろうが、密室であろうが、それは場所が違うだけで、ガード下の酒場で天下国家ネタでクダ巻いてるヲヤヂとやってるふるまいは同じ。それがどんな深遠で高尚なテーマをかかげようが、問題は、つねにそうした〈個〉*1に戻される。批判のその先こそが、個々にとっては重要なのである。
ま、ガード下のヲヤヂ以下のワタクシの内部(=人格)なんか元々ロクでもないもの。だから他者にとってその部分は関係ナイとるにたりないもの。繋がろうという部分で繋がっていればそれでいいと考える。それは可変部分でもあるので、そこに殊更の自己プレゼンスを全主張しようとも他者人格評価もしようとは想わないので、その繋がってる部分に対して内部/プライベートな事柄はカットしている。…こうしたことが、id:svnseedsさんが提唱されてる「分割統治」なんであろう。無論、ワタクシの緩い「分割統治」の仕方が唯一というのではなく、そこは各人様々なバリエーションがあってよいであろう。

*1:「自己」でも、プライベート=〈私〉=内部と、インデビジュアル=〈個〉=接続しようと能動する部分、パブリック=〈公〉=表象された社会的立場/役割は、違うものと考えてる。
ueyamakzkさんが言及されてた「当事者主義」問題も、同一体社会の中で個人の中でこうした区分けがされないまま、他者社会に向けて〈私〉=〈公〉と表出してふるまうから「all or nothing」で自己をゆずれなくなり、コンフリクトを起こしたのではないだろうか。>http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20040716#p3、#p4