「抵抗」への抵抗感

社会との関係は「抵抗」というふるまいでしかないという風な独特な左派意識に対する違和感が、ワタクシにはある。
「抵抗」が目的とする「勝ち/負け」による均衡=いわゆる55年体制ってのかな?その方法論はよりよい社会を築けたのかという過去検証がなされないまま、なにが得られるのかが不明なまま、「どう抵抗するか」=闘争という命題ダケが独り歩きをしている感がある。運動と称するものも、そのようなパフォーマンスのみで実態の伴わない「言挙げ」は、曖昧として伝わりにくい。ところが、その曖昧に多様な意味(個人のライフスタイル/アイデンティティも含めて)を込めようとするから、ますます第三者なワタクシは、ワケワカメ。
均一集積化するグロバリゼーションに「抵抗」して、多様性とかを第一に掲げてたりするのに、そんな意味集積化を起こしている「抵抗」自体を見直すって発想は、なんで起こらないのであろうか?
てなことを左派な方にいうと、大抵怒るばかりで答えてもらえない。「抵抗しなければ、現状肯定するのだな!」というのだが、「抵抗」だけぬきんでて現状…イヤ伝統堅持なのか、ワタクシには、すっげー謎。