コジレ

コジレも理想主体性と自己身体性の問題が大部分であると仮定するならば、これは中産階級特有の問題であり、しいては中産階級が理想主体とした西洋近代=<公>的自己と、あまりにもかけはなれた虚構的自己身体性=<私>的自己の齟齬とも言えるのではないか。だからそういう者にとってなによりもリアルなのは、厳然とした理想主体なのである。そこで、スピ志向が一段と高まるのではないだろうか。そうしてどんどん、スピ理想を闘魂注入して<公>にスーパーサイヤ人になった妄想で、日常リアルから遠ざかるが、ふと我が身をみれば実態はしょぼいへろへろな<私>。空想/妄想が唯一無二のリアル。そりゃあ、そんなの誰だって、きびしーよ。落ちこぼれ自認のアッパー中産階級は「都市ルン・プロ層」になるという疎外感をそのまま優越感にしてるとか。でもその落差のいずれも、中産階級内でしかない自分が食えない貧困に留まってるのが大部分。
だから、それをヤメにする脱出するのに第一に原理や理想を持ってきてさらにコジレたケースは山ほど目の当たりにしてるのだけれど、役にたった実例にはワタクシついぞお目にかかれないのである。皆様押し並べて、過去の轍は踏まないといさましく理想/原理を掲げるのだが、なんだかすごいアクロバットな展開かつハードルが高すぎて、元々もっと単純なのにも落ちこぼれてるのに、とてもとても無理難題!でしかないのである。こうしたことに「関係ない」とコメントで何度も言い放つ上野俊哉『アーバン・トライバル・スタディーズ―パーティ、クラブ文化の社会学』の有効範囲は凄く狭い(それは御当人もお認めになっているようだ)。それをなんとかしようとして、ふみあしさんが託した原理論も、やはりそうした高難易度を感じる。でそれは、反グロ運動/まったり/コミュニケーション/スノッブ/センス/スピ…あれもこれも詰め込むことで巨大化してる故に、統一理論としては過不足ないとしても、実際に実行しクリアするのは困難だからだ。
やっぱ、これは個々がどうのというよりもなによりも、そもそも理想/原理という理論の使い方、根本的に違うのではなかろうか。


長くなったので此れ迄。だらだらこれは、つづく。