思想のローカル展開

ふみあしさんの立てた<反/脱/非>というスタンスid:hizzz:20050802#p9は、なにか厳然たるもの=「主」があって初めて成立つものだ。日本の歴史の特異なトコは、常に実質支配と名目支配が常に分化してた…というより、実質支配権力が自らを保証するというカタチをとることがなかったと、カキコしたid:hizzz:20050510とおり、日本には統一された「主」は、一貫してないと考える。だからこそ、西洋という「他者 文明」に対抗するカタチとしての「日本」=主導的理念/規範を、近代に生成したのではないか。虚構としての「主」=絶対天皇制/戦後民主主義。「西洋文明」に対抗するカタチとしての主導的理念/規範は、身体化されてた近代以前を守ることでもあった。そして、カタチさえ守られていたら、内実を問わないというのが、この地の従来のやり方であったのではないか。が、西洋文明に真摯に傾倒すればする程に、そうした建前と本音を使い分けるダブルスタンダードは、ありえない「野蛮」。
こうして近代西洋の理念/規範とする上昇すること=スーパーサイヤ人になることによって富と繁栄を手に入れる方法論を実践した中産階級が日本に誕生した。ところが西洋的理念/規範がある程度身体化してしまえば、ダブルスタンダードの矛盾は解消される。こんどは逆に従来伝統が、エスニックになる。が、自己は以前として非西洋なモンゴロイドである。そうして、身体性につらなる歴史の中に守るべきものを持たない(西洋/日本という)主導的理念/規範が、空想言語上でからまわりを始める。
<反/脱/非>というのは、理想主体性に対するカタチでもあろう。教養(言語)主義的なリニアモード(=理想堅持)でノンリニア快楽をしようとする齟齬、それが「<非>のスタンスの行き詰まり」なんではないか。それに対して、ワタクシがid:hizzz:20050629#p3で考えた、ずーーーっとノンリニアなまんまの方々の理想主体性へのスタンスは、ダブルスタンダードの本音=<無>だったのではないか。