原理論と現状分析論

その死屍累々をなんとかしようとして、別の「正論」をもってきたところで、そこにはまらないひとはいくらでもでてくる。ま、いたちごっこではある。しかし、そういうループで癒されたりエクスタシーを覚える方もあるであろう。が、そゆ言論プロレス&教条をくぐり抜けスーパーサイヤ人に加速変身出来うる者は少数である。
そゆことに付いていけない多くの方々に必要なのは、より高度で集積されて緻密な「正論」なんかではないのでは。より大きな「連帯」でもないと思う。「孤独」を恐れてくっつこうと同調沈没するよりも、むしろ散るほうが、刻々と変わる状況にサバイバル出来うる確立が高まるのではないだろうか。そうしたとき、数多の「正論」はむしろ足かせとなる。「正論」以外の方法論をオミットするからである。往々にして「正論」の成立過程に選択搾取した状況は、必ずしも普遍/永遠ではないからである。ところが「正論」は、そうした問題にいつもほうかむりをする。
なにか原理原則が出来なければ行動出来ないという方がいるが、それでは原理原則を作らない誰かさんのせいで、自分は永遠に行動出来ないと言っているようなものである。いや、そしたら自分で適当にこしらえればいいではないか。そしてまずければ、その都度、修正すればいい。悩んでコジレる時というのは、その過去の検証&修正=現在原則が作れないまま過去の現理論にしがみついているケースが殆どなのではないか。ま、マニュアルなんかなくとも、こうして今、息をして汗をかいてるのではないか。
原理論は、個々がてんでばらばらにもっていればいいであろう。無論多くの共通項はあるだろうが、それを言語化して共有確認する必要も特に感じない。そういう研究をしているひと以外は、そうしたことは必要とあらば自分の中に確認すれはいいことである。それが凡庸であろうが特異であろうがライフスタイルになるのであろう。それは原理論と硬く結晶化しなくても、散文位で丁度いいかと思う。
ただ、個が関る/関ろうとする部分的な社会の状況で、現状分析論を共有/交換することは、仕事や家庭や趣味等などで社会を共有せざるを得ない上で必須かと、ワタクシは考える。
しかし、個人を最終統括する原理を外部に必要とする=メタ概念というヒエラルキーそれこそが、きわめて近代西欧的な特異思想なのではないのか。