運動の快楽

政治的立場の上下左右前後関係なく、職務以外で眉間にしわよせて「ブッシュのヴァカ!」「朝鮮氏ね!」とがなりたてることに心血をそそいでいる方々は、さぞかし世界平和と人類愛にみちみちていらっしゃる心の広い方なのであろう。が、何故か、そういうパフォーマンスすること自体に自己が一番エクスタシーを覚えて恍惚としているということを、お認めにならない。ならないかわりに、山のような「正論」で身をかためられる。「正論」ないとエクスタシー出来ないなんて、それは確かに不幸で不平不満を大声でいいたくなる気持ちは判る。不確実の時代の大いなる樹、「正論」信じる者は救われるのかもしれない。でも、身軽な快楽では満足できないなんて、ちょっと不便だなとも思う。
しかし、そういくらがなっても、ブッシュのヴァカが治る訳ではないし、朝鮮の方々もそうそう都合よくお潰れにはならない。それぞれに固有の事情ってモンがあるから。誰がそのヴァカをどうやって直すのか、誰が潰して後どーするのか、具体的プランがないと、どーにも事態は動かない。なのに、そうやってがなってイキイキ自己充足してる方々には、そういう趣味なんだなぁと、第三者はスルーするしかないであろう。
が、しかし。「平和」とか「人類愛」って一体全体どうやったら実現加能になるのか、その方法論を大抵持たないまま、「とりあえず」集団で大声だしたとて、なにも変わらない状況に、逆に運動当事者が追詰められ、真剣にのめり込めば込む程に、コジレたりしてパワー尽きて消耗していく。こういう人々を社会学的思考の草狩り場として運動(の上部構造)は利用するだけして、理想を掲げた側の失敗を力の弱い者に無責任に押付けたり、用(=パフォーマンス生産性)がなくなったら捨てることも起きている。それは契約が成立し法的に保護されてる(左派が罵倒してやまない)資本主義社会の雇用労働関係よりも、誰も責任を負わない分、格段に始末悪い。これらを運動に於ける死屍累々とワタクシは考える。そしてそれは運動史上、無いものと排除隠蔽され続けた故にストップ/フォロー対策があらかじめの理念実行プランとして一向に考慮されず、いとも簡単に同じ過ちを数多の運動体が繰返す。