マンバ


これは、通称「ゴングロ3兄弟」のひとり、ブリテリちゃん(19歳、2000年当時)。ティーン・ストリート・ファッション誌「egg」読者モデル。ブリの照焼きのように黒いから編集者が命名。しかしこの雑誌はこの号をもって休刊。約半年後にコギャル系ストリート誌として、復刊。現在も、南十条商店街3000円コーディネートだの、汚ギャルのお部屋でまったりだの、夏はレイブだサイケだパンクだと、ギャルはギャルでも野獣系快楽嗅覚でそここにトラベリング。
いろいろいわれたヤマンバだけど、外見はドハデだけど、それですることは官能小説の回し読みとか、地べたでのシャベリだの、行動半径狭い内輪ノリ。…となると、生息場所が違うだけで、ゴスロリ等のレイヤーおたくとヤッてることは同じだったりして。
トリュフォーが撮影のことを書いたなにかのエッセイで、素人でも女性は衣装やメイクをつけるとそれにふさわしいふるまい=演技をし始めるのに比べて、男性はそれが出来なくて手をやいたという風な一文があった。「生身」と「装う」ことの意味。それも又、ひとつの社会的プレゼンス。装えるその数ダケ自己の可能性を発見するということにもなりうる。「電車男」がヒットしたのは、膠着した自己の可能性を突破する方法論としての「装う男」という主題だからではないのかな。しかし、この「装う男」という主題は、仮面ライダーあたりの変身ヒーロー物語となんら変わらないんだけどな。
このような「装う」彼女達への評価といったら、「自信のなさ」「虚構」とかいって一生懸命落とそうとする者達が、世間の大半。だが、そうやって褐色ファンデをおとした(世間がこぞって推奨する)美白素顔メイクは、彼女達にとっては又別のペルソナスタイルにトライバルしたにすぎない。美白素顔メイクなタレント・モデルに対しては、あいも変わらず2ch等では盛んに「スッピンはブス」だのの断定がひっきりなしに下っているが、その見た筈の「スッピン」だって、先のペルソナ方法論を延々採用してれば、到底生身=中身なんかではない*1。「本当のアタシ」しか方法なくて身動きとれない人々に対して、その「装う」彼女の実存にとっては、もうはや「本当のアタシ」なんざ、どーでもいいことなのである。そんな彼女達ならば、そこに向かって「自己の内面」とか言い立て誇示しようとする男性(世間)は、キモい奴となるのであろう*2
…となると、そのようなふるまいを見る側、その自己が見た/判ったとした自己プロセス全てが、そもそも「虚構」でしかない、ということに戻されるのだけど、そこ迄拘る者は殆どいない故、視覚的不調和を解消するべく(id:hizzz:20050226#p3)、マンバは局地的な一過性現象・過去の遺物として、見る/(演じる)見られる側双方でわすれさられる祝祭。

現在のブリテリ嬢
http://www.office-matsuda.net/profile/buri.html
検証!「ヤマンバ」の登場と衰退
http://www.shibukei.com/special/118/index.html

*1:当時、ワイドショーで収納/リフォーム術と共に盛んに取上げられたのは、ダサいダンナとガングロ娘とフケこんだ自分を「イマドキ」に変身させるメイク&スタイリング術である。その中で、何故か息子ダケは手つかずだったのだ

*2:同時に、アタシ探し系の女性も、モテ市場からの現役撤退をせまられた。