情愛

なにしろ私小説の醍醐味といえば、主体というものの獲得に失敗しつづける快楽だったりするから、尚更始末わるい。そゆとこでは、西欧的〈男〉〈女〉の対峙するエロスというのは、遠い。ぢゃ、「恋愛」でなくてナニがあるのか、、、といえば、「情愛」ではないだろうか。
よろめき、なさけをかける、ほだされる…「情愛」こそ、男女関係と称して最も盛んに執行われているものである。実はホントは誰も「恋愛」なんか欲してなく、ひたすら「情」とそれによるヒエラルキー構造による連帯を求めてるんぢゃあないだろうか?相対的で個を常に問い問われ続ける「恋愛」よりも、その情ヒエラルキー構造のどこかに位置してゆるぎない安心感。それをもってして自己実現とする。そのヒエラルキーの最上には「純愛」論理をもって統合する。
さて、オタクの「コミュニケーション弱者を愛玩しろ」なハァ?理屈もこの「情愛」理論の「憧憬-愛玩」ヒエラルキーなら、うまく収まるんだよなー。うへぇ。>理想のカタチid:hizzz:20040524