消費されるオタク

サブカル最後?の楽園=オタクという安楽地帯に逃げ込んだ多くのサブカル難民が、「非モテ」という夢を覚まそうとする視線=いままで、そうした余剰を含めて資本を消費してきたオタクそのものが、消費される=批評対象と化したということに、自己を曖昧にさせたまま建前個人主義者としてバリアーを張る論議に終始して逃げようとしてるのではないだろうか。その為のアキバだったりオタクだったりといった虚構をつくりあげ、それを喜んでキモがる=消費する側もその虚構を歓迎するセットとして、実態ヌキに回りだす。そうすると、誇張されて喧伝されたそれが実態だと「学習」して虚構のその実態にあわせようとする者が現れ、ヲチ期待に応えてくれるという都合の良い空間。。。萌え産業化はそうして回りだしているのではないか。
カキコしてきたモテ/非モテ論議とそれに付随してきたアイデンティティ問題についてあれこれ考えていたら、ふと想いだした。赤瀬川源平のハイレットセンター時代の作品で『宇宙の缶詰』という作品がある。これは、なんでも包んでしまう梱包芸術家クリスト*1のパロディである。どういうものかというと、カニ缶のラベルを缶の内側に貼って、缶を密封したものである。これで、宇宙はカニ缶と化す。all or nothing。
しかし、はたしてそれで、消費されるのをまぬがれるのかな。むしろ、自らをパッケージ化したことにならないかな。いや、パッケージ化して売れるならそのほうがいーというひとが多いように見える。そしてね、そんな缶詰のラベリング貼りと「中身」談義に身を賭けるフリをしようとする皆様、…そんな言葉遊びは、サブカルポストモダンで過去さんざんやってきたことなんだけど。そゆ「構造」がもう全て見えているから、言説がからまわりするのですよ。。。

*1:Christo & Jeanne-Claude 日本でも茨城で『アンブレラ・プロジェクト』つー環境芸術をやったのだが、終了後その大傘の残骸が産業廃棄物として処理場に運ばれていったんだが、そこは一面パソコン廃棄の山というシュールな写真(その写真は産廃問題の記事に付随した週刊誌のグラビアだったかしたもので、アンブレラが映っていたのは偶然であり、記事は当然クリストには言及もされてなかった)を見て爆笑した記憶がある。<日本ではなにかインスタレーションをやらかすよりも、こうした不作為のトコに一番シュールでショッキングな場が生成されるという皮肉。