科学のインターフェイス

今日の科学者は、外からと内からと大きなゆさぶりを受けているのであるが、にもかかわらず、第二次大戦直後に科学者のあいだでさかんに論じられた思想問題は、このところ十分な批判検討もなく、置き去られたような状態にある。それらの「思想」はなおそのまま受け入れられているようでもあるし、反対に、科学者の多くは「思想」などそもそも不要だという結論をくだしているようでもある。はたして、こんにちの科学者にとって、世界的趨勢にしたがって日々の研究をこなし、社会に目をむけるといえば、せいぜい研究費の増額や大学の拡充を要求するだけで、いいのかどうか。あるいは、科学者は仮にそれでもいいとしても、こんにちの社会に生きる非科学者大衆にとって、科学は科学者まかせにして、むつかしい議論などすててかえりみなくてもいいのかどうか。社会のなかで科学が占めている場所がいちじるしくおおきくなったこんにち、右のようなことは一度徹底的につきつめて考えてみる必要があるだろう。

広重徹『科学思想』現代思潮社

イキナリ「思想」と大上段なハナシぶりが、時代を感じさせるが、それもその筈。これは1963年にかかれた文章。やれプレベンだベンチャーだ科学立国だと、幸福な胸算用を廻してはしゃぐ連中はさておき、その結果どういう恩恵とそれに懸かるリスクがあるのかないのか、そゆ多義的視点による見解(批評)がないまま、「○×発見/解明」などといったプレスリリースだけが次々流れていく現在にも、十分通用するなぁ。


※追補
はてなressで 「もろ私ど真ん中な内容なんですが、特に結論はないよう(問題提起のみ) 40年以上前の文章だそうですが、つまり、この「分野」にはそれだけ進展がなかったって事でしょう。」とid:metaka さん。70年代の後半に創刊した雑誌が次々とツブレてしまった今、文科省ポスドクだかのサイエンスライター育成とかが、この分野の進展だとしたら、あまりにもあまりですが(苦笑)。ITに変わる科学立国が言われてる中、プレベンに関る研究者の事業まわりでクリア&フォローしなければならない事柄に関する意識&視野のあまりにも低さ(=自己専門分野の過信&論文で完結してしまう思考)に、びっくりします。
思想と科学の幸福な時代については id:hizzz:20040726、科学の産業発展と80年代の政治摩擦については id:hizzz:20040520を。生化学とパテント争いについては id:hizzz:20041011を。当エントリーのワタクシの考えとしては、id:hizzz:20041014ってことで、ひとつ。。。