一人称でモノが言えない不自由

そう、「好き」「楽しい」ソレでいーんである。趣味な生活、ソレ追求してけば。たとえそれが、プーだろうがパラサイトだろうが、誰にナンといわれよーが、あらあらアタシはキンドーちゃんか、寅さんか。人生それでいーぢゃないか。そゆ生態が、キモい変態と呼ばれるのか孤高なアーティストといわれるのか、はたまた大作家センセエ様と恐れ戦かれるのかは、他者が後からハタで上げ下げしてることであって、自分の納得のいくまでする探求行為とはナ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ンの関係もないことである。結果的にどう評価しようともされようとも、それは、お互いの自由。いいたいのなら勝手にいわせとけば、いーのである*1。そんな外的なコトで折角の「楽しみ」を中断する意義も義理もない。
ところが「なにかやりたいんだけと、なにやっていいかわからない」無業者が、岡田本の「才能埋蔵マップ」で、「好きなこと」を見いだしたとしても、「アタシは○○が好き!楽しい!」って一人称で自己完結出来ない人がいる。その好きで楽しいことがマイナーで、周囲から共感を得られないことが、ひどく気になってしょうがないらしい。もしくは、自分が好きで楽しいことに埋没することそのものに、ひどい罪悪感や自己不全感があるようなのである。楽しくないならヤメりゃあいーものを、そゆ人はどうするかというと、「○○が好きなアタシが正しい」と声高にいい始める。自己の正しさを知らしめる為に、趣味の領域でさえ自己コントロールでなしに他者コントロールに向かう。
しかし、ヘンタイといわれよーが、ダサイといわれよーが、いーじゃあないの。ロリアニメで萌えてナニが悪い。きっちりと現実と区別して各人が自分のペースで楽しむことには、「正しい」つーの、余計な権威的価値観。大体、そゆ数をたのむ発想そのものが「クリエイティブ」ぢゃない。発想に解放されない、不自由な自己そのもの。
残念ながら昨今、そゆ自己承認という立ち位置=居場所さがしに夢中になってる人はとても多いid:hizzz:20041107。そういう層には、折角のプチクリの自由は届かず、「正しいアタシ」の補強材になるんだろうなぁ。
つい小手先の安易を選んで、結果的に行き場=可能性を狭くしてるってことなら、それはそう思った時点で見直せばいいことなんだけどなー。その行き場のなさ加減が心地よくってそこで煩悩ループしてたいならそれも良し。そこから始めようと思えば、新たな道ってのは、いつでもいくらでも見えてくるんだろうし。最低限そういう選択の自由は確保してるという確認さえ自己がついてれば、あとは〈個〉の裁量の範囲で、とやかくいうことではない放置プレイ。。。id:hizzz:20040602#p6

*1:自分の思ったとおりの評価が得られないといって怒ったり、落ち込んだりしてる人は、学者様でも大作家様でも雑文屋様でもよく見かける。が、上記にカキコしたとおり、ジゴトの能力とは自己コントロール力なんである。と、ゆー訳で、なにをどーエラソーなこといってても、思わぬトコでそのオレ様シゴト能力が、白日にさらされてしまうという仕儀なのである(まっ黒)。