オウムの消費のされ方

http://aum-aleph.g.hatena.ne.jp/matsunaga/
松永英明 (ことのは)=河上イチローバッシングである。ワタクシ的には、河上=松永=(元)オウム信者という説は、に既にあめぞう界隈かどこかで読んでいたので、きっこ関連とカミングアウトブログ開設という発火点があるにせよここに来てのバッシングというのは、うんざりという感じでしかなかった。「オウム・アレフアーレフ)の物語 」というサイト名もあざといといえなくもない。
しかし著述家として個をたてていこうと考えているのであれば、尚更、その著述原動力としても、オウム体験は避けては通れないだろうし、元オウム信者ということがネットの末端にも入ってくる位であれば、いずれそれに決着をつけないと、始まらないのであろう。で、あるから、あのようなカミングアウトブログを書かざるをえないということは、理解できる。
当然バッシングにさらされることは予想しているであろうが、ドコまで自分がそれを吐き出せるのか、出そうとおもって出てこないのか、それでもやっぱり出せないのか、それはこうした試みを通過してかないと、多分、当人にも判らないであろう。その曖昧さをもって、やっぱり「嘘つきだ」と称する向きがあろうが、読み手なワタクシは、あらゆる感覚を研澄まして、そのような3段階に記述を分けつつ観察していくのみである。このような記述に向かうことは、書き手も晒されているが、読み手も又曝されてしまうのであろう。だから、バッシング側としては、徹底的に叩いておかなければならない。
オウム=悪=バッシングすることこそ正義という単純な図式で煽ってる者は多いであろう。しかし排除一辺倒では、どうしてオウムがあのようなことになっていったのかという手がかりすら、逃してしまう。麻原の裁判がああしたワケのワカラナイ形で終了してしまうのであれば、尚更である。オウム=悪=終了で、その中身やプロセスが一向にワケワカなままで闇にほうむりさる我々でありつづけるならば、「共同正犯」のこちらとむこうは容易に入れ替われる事態で有り続けるのだろう。

松永英明さんへインタビュー
http://gripblog.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/__b8d1.html
オウマーだったあの頃#1〜7
http://d.hatena.ne.jp/kataru2000/