オタクという〈個〉のあり方

コンフリクトということでは、なにもそれはオタクに限らず、そもそもコミュニケーションを、情報交換/価値感共有/自己承認かの内、その目的としてどう意識して表出しているかということも、自己と他者との感覚(距離)をどう捉えているかという違いで起こることが殆どであろう。
「おたく」はそもそも、「時にお宅はどういう趣向?」と相対した相手に対して「お宅」=あなたの(セカイ的な)場所的に、人格でなく趣味観を指す二人称を使う人々というのが最初であった。つまり、趣味にのめり込みながらも、人格と趣味と生活は別という分割統治パースペクティブを自己内で持ちつつ、情報交換にいそしむという超個人主義者。そういう意味では世界という領地を持つ「貴族主義」といえるのだろう。
どうしてそんなカタチを好むようになったかと考えるに、岡田ら第一世代が10代をすごした1970年代におこった、60年代的「われわれ」という時代への絶望、学問権威/全共闘教養主義/大思想=文化支配)ラブ&ピース/オカルト(スピリチュアル=心の支配)産業進歩主義(上下構造)から逃れてトライブしつつ自由になる逃走方法でなかったか。おたくをおたくたらしめていたDIYという思想が背後から消えれば、そのあり方も変化せざるをえない。
結局、既存文化大思想からの脱却はオタキングのアカデミズムの接近が示している通り、べつのオタク教養主義という文化=政治なカルスタのタコ壷におちいいり、そんなこむずかしい蘊蓄オタク教養主義から脱落するライトオタクは、オレ様脳内スピでオタクアイデンティティばかりを求めだす。マイナーのそんな膨大な手堅い市場を見て方向転換したメジャーは、「萌えには萌えで」とばかりにあれこれ仕掛けを打つ。かくして、コンビニやブックオフ食玩ラノベや雑誌をせっせと調達するライトオタクがおたくのメインとして持ち上げられる。
意識としては、世界の中の点のおたく(何者でもない自由=趣味と生活の中間領域、大人に成らずに成熟模索=世界と自己を自由に移動)から、面の中の点であるオタク(束縛されない自由の承認=偏差値、校内/家庭暴力=子供のままで成熟模索=子供でいる為に世界の成熟を要求)に変わり、それが只の点=萌え〜(脳内自由の承認=成熟しない模索=自分が世界)になった時点で、自分が知らないコト&ひとは自分とは全てカンケーないディスという変遷でもあるか。
大人の〈責任〉、子どもの〈責任〉id:hizzz:20040626#p3