オタクと世界の関係の仕方

ネット上の書込みに対する岡田コメントで、非常に興味深い指摘がなされる。

重要な本論は「貴族→エリート→アイデンティティ」という流れの変化そのものであり、問題の本質は「共通文化への忠誠心を含む、同族意識の淡泊化」なんだけどね。インディアンや在日韓国人の例を出して説明したんだけど、そのところをレポートした人がほとんどいないのが残念。でも、あの部分こそが「なぜオタクが死んだ、といえるのか」のキモのはずだよ。

岡田斗司夫
http://putikuri.way-nifty.com/blog/2006/05/post_78fa.html#comments

これが重要に思われないでレポート脱落してしまったというトコに、あらためて世代意識の差を感じる。
第一世代(古参)と最近世代(若手)の一番の違いは、点在する様々なミクロをトライブさせマクロに繋げて世界観を作るかな古参に対して、いかに数多ある世界観にハマるミクロとなるかという若手の方法論の差なのではないだろうか。
ジャンル情報を10知ってるとか1000知ってるとかいうのは、いくらその数を誇ってもジャンル外にとってはあまり意味をもたないミクロ情報にしかすぎない。そのミクロ情報がジャンル外情報と結びつき、パースペクティブな深みと奥行きがついて初めて独自の世界観が立ち上がるのではないだろうか。
しかし、最近はもっぱらそうして切り取ったミクロのメタゲームを繰り返すことに夢中で、その切り取った元の系譜/文脈と切り取った後別の系譜に接続したというとこに関心が行かない為、「インディアンや在日韓国人の例」そゆトコ迄、世界をひろげられない。

岡田氏の定義するような第1世代・第2世代オタクが「萌え」に興味を持ったら、「萌え」とは何ぞや?で熱い議論を交わしていたことでしょう。けれど、第3世代オタクは「萌え」的なモノを見つけ出す能力に長けているものの、「萌え」の文脈的な事を語らない。「萌え」の文脈の奥行を知ろうとせず、本当にただひたすら消費するだけ。例えて言えば、カップラーメンだけを食べてラーメン通を自称しているようなもの。

KT
http://d.hatena.ne.jp/kasindou/comment?date=20060525#c

要はそゆことだろう。
オタ同士のコミュニケーションとしては、他者オタの世界観に基づく情報を取り込んで、自己世界観のパースペクティブを広げるという志向があるとはおもうが、最近の『萌える男』とか「文化系女子」とかの話題をヲチすると、性別関係なく、ジャンル情報1000はおろか2〜3のもので脊髄反射的コメント、自己半径数メートルのネタの外はアウトオブ眼中といった体たらくで、兎に角内容がミクロ&自己吐露すぎて、情報共有に至らず、至るとことでぷつぷつとそこで世界観が切れているということはありはしないだろうか。だからこそ、またかぁ〜というデジャヴ感な論争モドキがセックスコンシャスとジェンダーアイデンティティいう背景を団子状態にした男女差異論議として*1凝りもせず繰替えされる、永遠の祝祭。無論、ラノベとか涼宮ハルヒ萌え語りするブログでオタネタをカキコするのが全て自称オタクという訳でもないから、尚更、話題脊髄消費による流動化は避けられない。
そんな状況になっているからこそ、逆に「オタク」という自称をもってして、アイデンティティ訴求して世界観の補完をしなければなかったということがあるのかもしれない。
それが、「好きなものは好き!」である主体能力(表現力/情報収集力)を弱体化させ、所謂「自律」できないオタクの増加に繋がっているのかも。その自律できない=依存体質を、マスに迄狙いうちされるという循環に、どこ迄若いオタクは自覚的であるのか、という古参からの問題提起は、いつもすれ違う。

*1:ぱど厨問題id:hizzz:20040619、かざきり羽騒動id:hizzz:20040716、おお振POP騒動id:hizzz:20040819, id:hizzz:20040823、サークルクラッシャーid:hizzz:20050423、モテvs非モテid:hizzz:20050829、文化系女子id:hizzz:20060522