ドミニカ移民訴訟

2004年「過去のこととはいえ、外務省として多々反省すべきことがあったと。今後、このような不手際を認め、移住者に対してどのような対応ができるか。また、ドミニカとの間にどのような友好関係を維持発展させていくことができるか。そういう中でしかるべき対応を考えたいと思います。」という小泉首相に対し、ただ「斡旋した」だけで責任はドミニカ政府とする外務省見解を続けて平行線をたどってるドミニカ移民問題に、司法判断がついた。
移住者249家族1319人(1956年開始、61〜62年集団帰国130家族)の内170人が不法行為責任(当地で配分された土地の面積/質とその権利に関する契約履行)を2000年に提訴した国家賠償訴訟で、06年6月7日東京地裁は当時の外務/農林省職員&大臣に職務上履行義務違反を全面認定したものの、賠償については時効(除斥期間)により請求権消滅したとして棄却した。これに対して当初金銭補償は困難*1としてた政府(外務省)は、ODA検討に入ったという。しかし、ODAをもってして補償に換えるというのは、実は問題の先送りでしかない。(後述)
ドミニカ移民訴訟:「祖国にだまされた」 時効の壁「棄民」無念(毎日新聞
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060607dde041040038000c.html
ドミニカ移民裁判を読む(サンパウロ新聞)
http://www.spshimbun.com.br/content.cfm?DA_N_ID=119&DO_N_ID=11050

この「時効による棄却」が「国の仕打ち」としてはいかに不当なのかは、集団帰国した61年既に国会質問されているにも関わらず、費用貸付けによる集団帰国対処を持ってしてこの問題は終了したとして、原因=募集要項履行義務の責任の所在を曖昧にした為である。
衆議院外務委員会 1961年5月30日
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/038/0082/03805300082018c.html

戦後、外地からの引揚者/復員兵で一挙に膨れ上がる国内人口に対処(食料・失業対策)する為、1952年に海外移住が開始された。占領下沖縄では、米国が独自に軍用地耕作接収農民(米国本土移住希望)に、南米移住業務を行った。
支援事業は外務省の調査/決定に基づき、外郭団体の財団法人海外協会連合(海協連)(のちの、ドル借款が原資となった日本海外移住振興株式会社を統合した海外移住事業団(63年)〜国際協力事業団(74年)〜現・国際協力機構(JICA))が、実際の募集〜移住業務を行った。戦後応急処置的に拡大させた原野山林を開墾する「引揚者村」*2の行き詰まりに悩んでた農林省は、各都道府県開拓課を窓口配下=地方海外協会とし、海協連の国内業務=募集業務を薦めた。ドミニカ移民への応募者は殆どがこうした満州/朝鮮からの引揚者であった。
戦前の悪質な移民会社や周旋人を排除し、受け入れ国の「黄禍論」排日の二の舞いを避ける為に、外務省は目立たないように分散入植と家族移住/原地同化を方針としたが、これが全て仇となって移民当事者に降り掛かった。道路もロクにない奥地では人手だけが頼りだが、最大でも5戸であったという分散入植では、たとえ募集要項通りの土地であっても開墾は困難を極めたであろう。また、僻地で閉ざされたままの原地同化という名の放置は、文化資本維持低下を意味する。が、応募者には現地の正確な情報は伝授されず、移住後のフォローもされなかった。

*1:民間に比べて政府関連機関は、個人との金銭取引に関しては今も慣例として事実上許可しない。その経理操作の為に不要な中間機関を必要とし、その組織維持の為ダケの予算計上故に割高となるし、その迂回として中間機関を通る膨大な事務処理の為に、事業実施のプロセスに時間もかかる。

*2:今も各地にあるがオウム事件で有名となった上九一色村は、満蒙開拓団が入植して拓いた村である。