PKO「カリブ海の楽園」

日本の役人がズサンなのはなにもドミニカ例に限ったことではない。この判決を受けて、「緑の地獄」(@大宅壮一)と言われ全ての欧州移民が入植拒否し、文化度の違いで伯政府さえも難色を示したアマゾンに入植した日本人達は、移住者県民会等が中心となって賠償運動の気運が高まっている。
しかし、このドミニカだけ集団帰国ということに迄事態が発展した(不精な役人が集団帰国に同意)のは何故か?ドミニカ側は何故、トラブルになることが十二分に予測できた日本移民を必要としたのか?ってことを、ドミニカ移民訴訟を伝える報道は満たしていない。
それは、ひとえに「公開できない微妙な二国間の関係」という政治が始終キーとなる。

○政府参考人(鹿取克章君) 当時、ドミニカは国の開発を進めておりましたが、国境地帯についてはまだ未開の地が多かったので、国境地帯を中心に移民を推進したと、そういうことでございます。
尾辻秀久君 だから、向こうにしてみれば、人間の盾地に日本人入植者を国境に並べたんじゃないですか。それをあなた方は知っていてやったでしょう。知らなかったんですか、答えてくださいよ。
○政府参考人(鹿取克章君) 当時、吉岡団長の報告書も引用の、引用がありましたけれども、当時、国境地帯に日本人移民が期待されていたのは、正に国境地帯の開発、それに日本の優秀な移民を、移民の方々に入っていただきたいと、こういうドミニカ政府の考慮があったものと理解しております。

参議院予算委員会 2004年3月10日
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/159/0014/15903100014007c.html

1493年コロンブスに「発見」されたドミニカは、スペイン〜フランス〜イギリス〜ハイチ占領をへて1844年に独立。1916年から米国に実質軍事占領状態となる。1930年に政権を握ったトルヒーリョ将軍(大統領)下には、カストロキューバを追われたバチスタやベネゼイラの独裁者ヒメネスが亡命し、ドニミカは中米の反共の砦となる。しかしそんな政府収入金は米国が同意した銀行に保管されなければならない、米国従属協定ポチ状態であった。
ハイチとの国境紛争は絶えなかったが、ドミニカ政府は領土保全の為に、スペイン人〜ユダヤ人〜ハンガリア人移民を次々誘致し、彼等が撤退した後、日本人入植がトントン拍子で決まる。「人間の楯」いわばそれは開拓義勇団の屯田兵、今で言うなら海外派兵。実際現地で「外人部隊」参加登録に署名した者も約60名程度いたという。募集要項でも説明会でも役人からはそうした現地情勢は一言も説明されていない。マスコミもこぞって、ただただ「カリブ海の楽園」な夢ばかりの宣伝に始終した。
集団帰国が実現したのは、元々同国法により外国人には耕作権しか付与しない土地は政府の意向でどうにでもなる不安定状態の上に、親日家だが軍事独裁者トルヒーリョが1963年暗殺された内乱状態下、土地権利権の契約履行どころか「日本人」であること自体で生死の危険が増したことが大きい。
海外移民業務は、米国の顔色を伺いつつも、戦前戦後一環して「日本移民」の評判が高かった南米に日本外交の足場を作ろうとした外務省と、国内開拓の失敗を海外にもみ消そうとする農林省と、耕地整理と人べらししたい各都道府県開拓課の利権争いの中で、数字(移民)を上げることだけに集中した結果の悲劇なんであろう。