解釈のアイデンティティ

丁度同じような人文学と知識人の再生という問題設定の本が出てた。コロンビア大学での講演草稿を纏めたサイード最後のメッセージ『人文学と批評の使命』ASIN:4000234234イスラムについて触れている。

イスラムにおいて、コーランは神のことばであるので繰り返し読まれなければいけないが、完全に理解するのは不可能である。しかし真理がことばのなかに存在するのは事実であり、読者には、先行する他人が同じ厄介な仕事をしてきたことを深く認識した上で、まずコーランの文字通りの意味を理解しようと努める義務がすでに課せられている。だから他者の存在は、証言者の共同体として存在しており、以前の証言が現代の読者に対してもつ有効性は、それぞれの証言がそれ以前の証言者にある程度依存するという連鎖によって保たれている。この相互依存的な読みのシステムが「イスナード」と呼ばれている。共通の目標はウスールと呼ばれる、テクストの根底、原理に近付くことである。

ジハードという語は主として聖戦を意味するのではなく、むしろ真実のための、本来は精神的な尽力を意味するのだ。

解釈についての他の宗教的伝統と同じように、こうした用語について、またそれらにどのような意味が求められるかについては、膨大な議論が積み重ねられていて、どうにかするとわたしはその議論の多くを危険なくらい単純化し、見過ごしてるかもしれない。しかしテクストの修辞的・意味的構造を理解しようとするいかなる個人的努力においても、許容される解釈の限界点となるのは、狭義には法体系の要求、加えてもっと広義には、一つの時代の慣習や心性であると言ってよいはずだ。
イード『人文学と批評の使命―デモクラシーのために』

そして、アラビア世界/文献学的解釈/米ブラグマティズムの伝統の三例とも用語こそ異なれども、約束事や意味の枠組、部分的制約として作用する社会的政治的共同体的特質を指摘する。脱構築や言語分析や新歴史主義といった新たな教条主義が一部の文学専門家達を公的領域は無論、同じ専門用語を使わない専門家達からも切り離されてると憂える。が、もはやひとつのアイデンティティやマスタープランに委ねることのできない我々社会である。
本は、昨今の多文化主義の乱用やアイデンティティ政治には警鐘をならし、ウォーラスラインを引いてデモクラシーの自由の一形態として批判を位置づけ、多様な世界と伝統の複雑な相互作用についての感覚を養うこと、属しつつ距離を置き受容しつつ抵抗すること、自分の社会や誰か他の社会や「他者」で問題になっている広く流布した考えや価値観に対しインサイダーでありかつアウトサイダーであることがヒューマニズムたる人文主義に(作家や知識人に)求められるとしながら、伝統的文献学手法を擁護。