隣の常識は、家の非常識

こないだテレビでじいさんが海で網にかかった石を持ち帰ってそれを日夜ご本尊として拝んでいる漁師一家が出てた。その石事体になんの理論が封摂されているというのだろうか。ただ、じいさんがその石になんか感じたという「感覚」それだけある。その「感覚」に家族が感応してそれを鎮守というカタチとして石を「依りしろ」に見立てて受けつぐ行為が、大漁と家内安全の一家の祈りとなる*1。その漁師の隣に住む農家があやかって、豊作と家内安全をその石に見いだせば、祈りは家族共同体を越えて共有される。そんな感じの延長で、前提を共有する者の共同体が信仰の場を醸成するのが大抵の宗教だったりする。信仰は「感覚」を祈るというカタチに込める。民俗信仰なんてのは大抵そう。このような感覚共感で共同体を生成する為には、本尊に厳密な論理定義をつけるよりも、曖昧模糊としておくほうが誤謬も封摂できて合理的である。大体、「God」っていう概念=ロゴス自体が日本語にはないものな〜*2
いやだからこそ民俗/宗教を越えた世界的普遍の追求でロゴスと神を切り分ける為(政教分離)に、「神は死んだ!」とか「無神論」とかワザワザいわなくっちゃあはじまらなかった西欧近代思想。其の中をくぐって、神は活きてる神学にとっては、こうした多様化する文化の突き上げにある学問ヒエラルキーの中で、永遠のロゴスをどう生きるかという宗教アイデンティティの回復をどうするのかが、今回の講演の主題なんだろうなぁ。
しかし神学界外には、ご利益がある石を自己のアイデンティティにして表現するのと、自己がもったアイデンティティは他者にもご利益があるから同じアイデンティファイせよと表現するのとは、大違いである。なおかつ、他者に同じアイデンティティにないのは「正しくない」とするジャッジを振り回すことは、世界征服の第一歩なのである。とまれ、一神教というのはそういう矛盾を抱えているからこそ、最初にデカイ風呂敷をぶぁ〜っと広げておかないと、信仰が立たないのだけれど、逆に統一教義をアイデンティファイさえすれば、日常感覚ヌキで生活共同体を越えて成り立つという可能性がある。それもって布教側は「普遍」としたいのだろうけど。
がしかし、異教徒信仰以外にも個人主義の徹底でそうした感覚共有を保持できない現状なとこにも、統一理論な「理性を広げる勇気」と「理性の偉大さ」を自負したイエスズ会みたいな超越論理を立てようとする、それが他者異者にとっては非常識きわまりないというコンフリクトは、すくなくとも教皇の演説内に於いてはちっとも解消されてない。


※関連:原文と翻訳と報道の事実関係を追って誤差を指摘してる方々
eirene http://d.hatena.ne.jp/eirene/20060918
    http://d.hatena.ne.jp/eirene/20060921/p3
kom’s log http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20060916
       http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20060918
こころ世代のテンノーゲーム http://d.hatena.ne.jp/umeten/20060916/p3
電網山賊 http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20060919#p1
ね式(世界の読み方)ブログ http://neshiki.typepad.jp/nekoyanagi/2006/09/post_6a82.html
tnfuk http://nofrills.seesaa.net/article/23883552.html

*1:神社は「屋代」であり、そこに鎮座してる「神体」は「依りしろ」。仏壇に鎮座してる位牌も同様の意識で取り扱われているのではないだろうか。このように日本語での「神」や「仏」とは、集積した感覚の「媒体」を指す語彙かと。

*2:言葉は護符=見た目の飾りでそれが感覚をもって使うと、「祝」か「呪」ってことに意味が生成される呪術の為の道具なのかも。無論、言霊=ロゴスではない。