教育権優先の議論

年の瀬のオセオセ日程消化で教育基本法改正案参院特別委員会可決したのだけど、ここんトコの話題の流れを珍妙に思うのは、教育基本法改定とレアケースなとても気の毒ないじめ自殺はセットで語られそのスケープゴードとしてマイノリティとなってきた日教組がやり玉にされたのに反比例して、文科行政から学校から先生から生徒から卒業生迄広く関係しているマジョリティケースだった単位未履修問題は隠れて、やらせタウンミーティング以上に誰も責任の有無を問わないでなんとなぁ〜く「了解事項」となったこと。

必修漏れ、24年前から
http://www.asahi.com/life/update/1213/006.html

そもそも教育って社会的責任主体を育成してくハナシid:hizzz:20061101#p4だとワタクシ思ってるんだが、その責任の所在の在り方において、アバウトな言い方をすれば、どーも右派は国民が国家責任主体をもつハナシを、左派は国家が国民責任主体もつハナシを志向してるようだ。政府案よりも強烈な民主党案から「子供の声を聞こう」な日教組迄、学習主体ではなく、教育主体はどこにあるべきか的ハナシなのである。でも教育といった時、必ず教育する側とされる側はセットでなければ成立しない。学級崩壊でもニート/学卒無業でもよいのだが、学ぶ主体=学習権をもつべき個人主体が疎外されてるのに、改正案反対派の言説でもいつまでたってもちっともそのハナシがでてこなくって、養育権もなく教育する機会なんかナイ庶民にとっては、実益ナキ「理念」なんか、抽象的法案文言なんかどーでもいいわになる。

伊吹文明文部科学相は12日、閣議後会見で「総合的学習は幅広い解釈がある。どう運用していたのか事実関係を調べるように(事務方に)言った」としたうえで、「君が代、日の丸についてはあれほど厳しい指導をしている教育委員会が、このこと(履修問題)については随分、裁量の範囲が広い指導をしている」と語った。

都教委:未履修科目の受験対策振り替えを容認 補習求めず
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061212k0000e040043000c.html

とまれ国家に依る教育とは、当然、国家に都合の良い国民をいかに効率良く仕立てるかということ(いかにして都合良い子を育てるかなんてコト、最初からどーにもこーにもカンベンして欲しいハナシなんだけど)だからこそ時局や政府方針で左右されることがないロングテールな学問の自由、独立独歩が叫ばれている。それは理屈としてよく分かる。だが、単位未履修に見られるように学校が公約してる学問知識伝授ということを最先に放棄してるのをなし崩し的に学問教育者も含めてみんなでスルーすることにしてるのは、個人の学ぶ権利より、教育する側の事情優先してるということになるのでは。そゆことが、現行の教育基本法と学習指導要綱の「拡大解釈」で営まれていたということ。改正案が適用される前から、学問ナキ学校という規律道徳機関であったということが、ハッキリしてるのに、それには目をつぶりつづける。そっちのほうがはるかに危機的ではないのかな。
そして学ぶ権利が疎外されつづけてた権利の重篤な侵害=無教育っていうハナシを立てようとする者は(ワタクシの知るかぎりに於いては)いない、と。大体、「義務教育」ダケで世の中活きていけないこと自体をホカして、ひとの教育権あだこだしてるのなんか、なんだかなぁ〜。