多様性との棲み分け共生

なんで科学発達したこの時代に、擬似科学とかスピリチュアルとかエコロジーとか陰謀論とかの論理科学を偽装したセカイ系な諸説が百科撩乱になるのかといえば、そりゃあ、ポストモダン/多様性の時代だからだ。知恵=ザ・ブックといえば、『聖書』であり全ての学問諸説はその偉大なるザ・ブックのヒエラルキーの整然とした秩序にある中世なら、「真理」は常にひとつで教会が容認しない諸説は、魔女狩り火あぶりで排除。
以前書いたとおりid:hizzz:20061005、「共生」という美しい理想は実は自他の差別化アイデンテイティ政治のハテにある。民主主義における多様性のめんどくささは、スクラップの膨大なすそ野とノイズにみちた世界で試され立脚しつづけて、ようやっと存在が確認される。ところが、論者も論説を聴く方もえてして、そんな世の中であるということを忘れて、お互いに最短合理性をさぐりだす。すると、論者は同志に向かってばかりしゃべりだしてだんだんハイコンテキスト化して囲い込み、他者にはワケワカメになる。視聴者は何人もワケワカメなことをだらだらいってる者を辛抱強く聴くよりも、高いトコからハッとするフレーズをデカい声でいう者の方へとむかう。かくして、同志内と外では、其の時の最適合理性によって、科学はその社会の倫理によって使い分けられる。
そういう多元で流動的な世の中で、学校やTVや新聞雑誌やネットというのは、視聴者が動かなくともある一部を切り取って延々と見せてくれる装置である。で、それには価値がつけられる。だからそこに載ってるダケで価値があると、けっこうな人が思ってしまう。マスメディア(もしくは広告モデル)というのは、媒体種類にかかわらずそういう幻想を取り込んだ運動で成り立っている。が、そこに切り取られたトピック全てに価値があるから見えている訳では全然ないんだけど。