思弁にタガを嵌める理性

私たちの制度(政治的、社会的、道徳的、宗教的制度)の多くは、批判的ないし懐疑的につきつめるとうまく立ち行かなくなってしまうようなものです。懐疑論者が体制側につくことはまずありませんし、だから危険人物ともみなされます。しかし、懐疑的態度が権力に引き起こす困惑が、ここで私が扱いたい問題なのではありません。論じたいのは、懐疑論が合理性の本質的な要素であるにもかかわらず、やりたいようにさせておくとその懐疑の触手を野放図に伸ばしていき、やがて合理性という建物を破壊してしまうことにもなる、この問題です。ここにおいて懐疑論は、カントの言うような、相反する形而上学的立場の果てしなき争いの結果として現れるわけではありません。出発点はあくまでも、私たちの常識的な、きわめて理の通ったいくつかの判断基準です。それが、無制限に適用されるとき、手当たりしだいにあらゆる知識をなぎ倒してしまうのです。とりわけ、私たちの知識の源泉と目されるものに向けてその批判的な力が解き放たれると、懐疑論の極端なヴァージョンが宿命的な結果として待っています。

ロバート フォグリン『理性はどうしたって綱渡りです

「いかなる体系をもってしても、われわれの知性と感覚を擁護することは不可能である。体系によって正当化しようと努力すると、かえってわれわれは知性と感覚とをいっそう矢面に立たせるだけでしかない」というヒュームの言葉を引く著者は、理性がその理想を存分に追い求めるときに、不可逆的にパラドクスか不整合にいきつき、二律背反や行き過ぎた相対主義懐疑論など言語=ロゴスの暴走でタコ壷に入って幻想や不満・自己不信が空回りするような危うい知的生活には、随時現実を取り込んでならすという「思考を越えた制約」の下に思考を置く。本来非概念的なものの制約を受けて成り立ってる理性は、その制約に服してしかるべき予防措置を講じておくべきであり、野放図に発展させるから難解/困難を伴うと説く。