自己スタンスの限定性

はてなダイアリーは、なによりも元はダイアリー=日記という設定なんだから、論説や批判や意見じゃなくって単なる「感想」書くのはまったくかまわないとはおもう。その日記とBlogとが曖昧模糊と混在させてるように見えるものが、はてブキーワードリンクidコールやトラバなんだろう。でも、はてなでも大部分の人たちは、それらの横の世間繋がりとは関係なく自己&友達世界でそこそこやっている。
だが、それが上記の「経営学先生」などという社会的立場だったりすると、今回のようにワキが甘いぶ文章が綴られると、つっこみの嵐となり易い。後、歴史問題で度々物議を醸す池田信夫先生とか。あ、この池田先生もカタガキ経済学者なんで、尚更?社会派はてダな皆様の経済ギライが増すのかな。
以前から書いてるけどワタクシのスタンスは、コンビニ前のウンコすわりである。はてブキーワードリンクなどは、コンビニを利用する人々の足跡。で、その気になった足跡があまりにも偏ってたりして変だなぁ〜っと思うと、なんでそっちばっか見てるんだ???と書いたりする場合は結構あるかな。最近書いてる貧困とか歴史問題とかは、本当は複合的な問題なのにメディアも含めて論説擁護派にしろ批判派にしろ単純化しすぎな面がとても気になってしかたがない。ま、後でサルベージする者に対してこんな視点もあるよ的なことでしかないが、「(話題ラインに)上げてもらえない」異論がないことに絶望する前に思う異論を書いとくか程度で。
そして数多な「感想」当事者主義も、半径ワンクリックな単純化したワンフレーズポリティクスの安定の上で展開されている。感性ってものの使い方は、本当はそうした巌のような議論構築の牙城の既定路線から外に出る=「降りる」為のものだと考えているんだけど、最近はむしろ別の議論構築の牙城に取り込まれる為に発動させているかのような結果とBlog上なっている。>「かわいそう」といったという女生徒、「死ねばいいのに」というはてブのタグ
あとは、、、、理性の使い方になるのかなぁ。