人間解放というロマンと、共同体による制圧欲望

私公の区別はなんとなくついてても、コミュニケーションとエクスプレッションの違いが判ってない人が結構いる。
共同・同質化を深めるプロセスとしては、忖度と慮りの関係=互譲性による繋がりがメインであるから、空気まで読んでひたすら共同体がクローズアップした「あなた」に共感して、自己を顧みて反省表明したりもして、その共同体維持の為に精進しなければならない。いやそんなのたまんないと直感的に思うものは、共同体の面前で「グレ」たり「キレ」たりしてエクスプレッションして「あなた」化しようとする。
もすこしソフトには、エクスプレッションの権化であるアート行為をするアタシには社会認知されうる公共性があると短縮して、社会での個を確立しないまま、共同体の中で自他認知というサロン的自己実現めざしたアーティスト症候群という手段もとられる。
そのロマンを最大レベル実践にしてトドメをつとめたのはオウム真理教であったハズなんだけど、その後の「ワールドワイド」「68年革命」の大はしゃぎと「終わりなき(バブりー)日常」=普通幻想は「格差社会」到来ということで、強制忘却。もう、右から左まで歴史修正、都合の悪いことは全て、代替わりってことで知らないことはなかったことに。なかったことは考えられない。寄らしむべし知らしむべし。グローバル化同類項の波に打ち勝つ反動エネルギーを保つ為には、更なる異質を社会スローガンとして次々に打ち立てるしかない。かくして現状生態とは関係ないまま、当事者主義とは名ばかりのエクスプレッションが誇張された、おたく〜ひきこもり〜ニート非モテ非コミュワープアといったような「ワンフレーズポリティクス」のとっかえひっかえの消費が始まっている現状ではないのかな。で、それこそ*1が人間解放というロマンと共同体による制圧欲望の2つを充足してくれるもっともアクチュアルなものとして。
邪悪、清楚、素朴、献身、誠実、、、もっともっと「純粋なココロ」を見たい。でも、それが現実世界では齟齬をきたすのならば、現実とは別腹セカイの中心で愛を叫び、感動にどっぷり漬かって身をふるわせたいあたしたち。でもあなたのいるところだけなにもない空間に向かって。異者とはその視線さえ交錯しないそれが、「異種混合としてのグローバリゼーション」の現実を活きる者なのか。。。